子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の「関ヶ原の合戦」について、どのように描かれていたのか、ヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想。
狸親父ぶりをみせる家康
朝鮮出兵から関ヶ原の合戦、江戸幕府を開くまで
今回はこの徳川家康と本多正信のコンビが主役な「関ヶ原の合戦」
(『まんが日本史』の徳川家康とはかりごと好きそうな本多正信)
(『まんが日本史』より、ぶつかり合う武闘派の加藤清正と文治派の石田三成)
この仲たがいを生かして天下を狙おうと考える家康と正信。
(『まんが日本史』より)
(『まんが日本史』より、秀頼公の行く末を案じながら亡くなる前田利家)
しかし、病には勝てずついに死去。家康にとっては最大の目の上のたんこぶがとれ、まさにチャンス到来と
(『まんが日本史』より)
家康と正信は、ここで石田三成を差し出してしまっては、秀吉子飼いの武闘派が石田三成に向けていた憎しみの炎を、今度は豊臣のためと家康に向けてきては困るので、三成を助けて、その領地の佐和山城に引退させてます。石田三成はその佐和山で家康と戦うことを決意します。
家康は、五大老のうちで本国に帰って上洛してこない上杉景勝に上洛を促す書状を送りますが、上杉景勝はそれに大いに怒り、家康は大義名分を得たと上杉討伐の軍勢を起こします。
(『まんが日本史』より)
というよりも本心は、それで上方を留守にすることで三成らが挙兵するに違いないとの思いからの上杉討伐でした。
(『まんが日本史』より)
下野国小山にて、案の定の石田三成の挙兵を知り、伏見城が落ちたことを知り、ここで世にいう「小山評定」を開き、光秀憎しの秀吉子飼いの福島正則の声などにより、秀頼様のために石田三成を討つという形で、上杉景勝の討伐はおいておいて西に陣を進め、1600年9月15日に東西両軍が激突します。
特徴としては、とにかく家康が狸おやじで本心を隠しながら、秀吉子飼いの福島正則らをうまく東軍につけることなどを謀臣の本多正信とうまく進めていくことでした。
あと面白かった点については、関ヶ原の戦いに向かう東軍をみる民衆が、その秀吉の子飼いの臣らが、石田三成ではなく徳川家康に味方したことについて、自分の身のかわいさに勝つ側につくことを選択したやつらだという感じのセリフが出てくるところで、この放送当時にそういう評価もされていたんだということを確認できたことでした。
同時代の世界のできごと
アニメ『まんが日本史』、1983年4月〜1984年4月に放送されていました。その当時の通説的な日本史理解を知るのにちょうどいい番組だと思います。
「まんが日本史」は1980年代前半のころの日本史の通説的な考え方を知ることのできる番組として楽しんています。