#262 『信長公記』を読むその36 巻15の4 :天正十(1582)年 甲州征伐の後処理 | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

歴史をもっと知りたい!
本を読めば広がる光と闇を楽しんでいます。
歴史と読書記録。積読などをアップしながら、日本史や世界史を問わず歴史の考察などを発信します。

『信長公記』最終巻の巻15 天正10(1582)年のその4は、甲州征伐で武田家滅亡後の後処理について、恵林寺の焼き討ちが行われます。

 武田領の知行割が決まる。

恵林寺の山門

 

恩賞と新法と

 3.29 ご所領の割り当てを仰せ出された。

      <覚え書き内容>

甲斐:河尻与兵衛に、ただし穴山梅雪のもとからの所領は除く

駿河:家康卿へ

上野:滝川左近将監一益へ

信濃:高井・水内(みのち)・更科・埴科の四郡は森勝蔵長可

   木曽谷二郡は木曽義政のもとからの所領でご承認

   安曇・筑摩(つかま)の二郡は木曽義政に

   伊那一郡は毛利河内守秀頼

   諏訪一郡は河尻肥後守秀隆に、甲斐の肥後守の所領(西郡)を穴山梅雪にあたえられた替地として

   小県・佐久二郡は滝川左近将監一益に

美濃の岩村城は、団平八が大活躍したので、岩村のうち兼山と米田島は森乱に、これは兄の森勝蔵にとってありがたいことであった。

この日、信長公は甲斐・信濃両国へ御法令を下され、ご帰陣になってからは、信濃の諏訪に三位中将信忠卿を残し置かれ、ご自身は「甲斐から富士の裾野をご覧になり、駿河・遠江を回ってご帰洛なさる」と仰せになった。

 4.2 諏訪から台が原に陣を移され、御座所の普請・賄いなどを滝川左近将監一益に申し付けた。

北条氏政が武蔵野で追鳥狩りをし、捕えた雉500余羽を進上してきたので、菅屋九右衛門・矢部善七郎・福富平左衛門・長谷川竹・堀久太郎秀政の五人を奉行に、お馬回り衆を召し寄せ、かの遠国の珍物を下された。

 4.3 台が原をおたちになり、名山と思われる富士山が見えた。山上には真っ白に雪が積もり、まことにすぐれて面白い景色なので、見た者はみな驚嘆したことである。信長公は勝頼の居城の甲州新府の焼け跡をご覧になり、古府に到着された。信玄の館跡に、三位中将信忠卿が普請を命じ、仮の御殿を美しく汚しつらえになった。そこへ信長公は陣を据えられ、丹羽長秀(惟住五郎左衛門)・堀久太郎秀政・多賀新左衛門におひまをくだされ、この者たちは草津へ湯治に行った。

 

恵林寺を焼き滅ぼす

恵林寺(甲州市)では、佐々木次郎(六角承禎の変名)をかくまっていた。この罪をただすため、三位中将信忠卿は、恵林寺僧衆成敗の御奉行役に、織田九郎次郎・長谷川与次・関十郎右衛門・赤座七郎右衛門尉に命じられた。

奉行衆が恵林寺へ行くと、寺中の老若の者一人残らず山門の上へのぼらせ、廊門から山門にいたるまでわらを積み上げさせ、火をつけた。快川紹喜(じょうき)長老は少しもあわてることなく、端坐して身動きもしなかった。他の老若の僧・稚児・若衆たちは、炎の中で躍り上がり、飛び上がり、抱きつき悶え苦しんで、かの焦熱地獄・大焦熱地獄のような炎にむせび、まことに目も当てられなかった。長老だけでも十一人(宝泉寺の雪岑(せっしん)長老・東光寺の藍田長老・高山の長禅寺の長老・大覚和尚長老・長円寺の長老・快川長老ら)が死んだ。なかでも快川長老は隠れもないりっぱな僧で、去年内裏においてかたじけなくも円常国師という国師号を頂戴申した。これは、都に限らず地方までこの上ない面目をほどこされたことであった。

 4.3 恵林寺は滅亡し、老若上下関わらず150余人が焼き殺され、諏訪刑部・諏訪采女・段嶺・長篠といった人たちが、各所で百姓らに殺され、首が進上され、ごほうびとして黄金が下され、これをみた他の百姓たちは、後世まで名を遺すほどの武田方の実力者を尋ね捜しては、首を持参したのであった。

 

飯羽間右衛門尉を成敗

このたび、飯羽間(いいはざま)右衛門尉を生け捕りにして信長公に進上もうした。この右衛門尉は去る天正二(1574)年美濃の明智城で謀反をおこし、坂井越中守の親類を多数討ち殺したので、今度は坂井越中守に成敗させた。

美濃衆の秋山万可・秋山摂津守は、長谷川竹に成敗された。

北条氏政から、御使いとして玉林斎が馬十三頭、鷹三羽を進上して参ったが、いずれもお気にめさず、そのままお返しになった。

 

川中島の反乱

4.5 森勝三(長一)が川中島海津に財城氏、因幡彦六貞徹がいい山に陣を張っていたところ、一揆がいい山を取り 森勝三(長一)が川中島海津に財城氏、因幡彦六貞徹がいい山に陣を張っていたところ、一揆がいい山を取り

4.7 敵は長沼口へ八千ばかりで攻撃をしかけ、ただちに森勝蔵が駆けつけ、1200人余りを討ち取り、大蔵の古城では女・子ども千余人を切り捨て、首数にして2450余もあった。

飯山を取り巻いた敵兵は引き払ったので、飯山を接収し、森勝蔵が部下の兵を入れ、稲葉彦六は本陣の諏訪へ帰参。稲葉勘右衛門・稲葉刑部・稲葉彦一・国枝らは安土へ帰陣し、信長公に報告申した。

森勝蔵は、毎日山中へ攻め込み、あちこちで人質を取り固め、百姓へは在所へもどるよう命ずるなど、全力を尽くしての活躍ぶりは大変な者であった。

 

 

にほんブログ村 にほんブログ村へ
にほんブログ村