#252 『信長公記』を読むその29 巻14の2 :天正九(1581)年 対武田・伊賀平定 | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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『信長公記』巻14 天正9(1581)年のその2は、徳川家康の対武田勝頼と伊賀平定について

 北へ西へ広がる分国 対武田&伊賀平定

北畠(織田)信雄肖像

武田勝頼出兵の風聞

 正月2日 信長公は安土城内の町人たちに、お鷹狩りで取った雁は鶴などを数多く下賜され、町人たちは常楽寺の沙々貴神社で祝儀の能を演じ、頂戴申した。

 正月3日 武田四郎勝頼が、遠江国の高天神城を後方からの支えとし、甲斐・信濃に一揆を起こし、出兵したとの風聞が伝わり、岐阜中将信忠卿が出馬され、清洲城に陣取られた。

 正月4日 高天神城南部の横須賀城守備の為、水野監物、水野宗兵衛・大野衆の三首領が派遣された。

 

徳川家康、高天神を攻め落とす

 3.25 夜10時ごろ遠江国の高天神城に籠城していた武田方が兵糧不足で大半が餓死したので、残党がうって出てきたが、徳川家康公の軍に討ちとられた。

敵方の部隊長格にあたる総頭の首は、駿河の先陣の者たちでは、岡部丹後守真行、三浦右近、岡部帯刀など

武田四郎勝頼は当方の武威に恐れ、眼前に甲斐・信濃・駿河の三か国で歴代の勇士多数を討ち死にさせ、高天神で餓死させ、援軍も送らなかったので天下の面目を失った。信長公のご威光とはいいながら、これは家康公のご勝利のゆえでもある。

家康公は遠江の三方ヶ原で武田信玄と合戦をし、武田四郎勝頼と長篠で合戦をしたが、いずれも勝ち戦で、その手柄は目覚ましいものがあった。しかも武・徳の両道にすぐれ、神のご加護は申し上げられないほどすぐれていた。

 3.28 菅屋九右衛門長頼は能登国七尾城代としてさし遣わされた。

 4.10 信長公はお小姓衆5、6人お連れになって竹生島を御参詣に、安土城では遠路ゆえに長浜にお泊りになるであろうと誰もが考えていたが、その日のうちに信長公はお帰りになった。女房たちは二の丸まで出かけていたり、桑実寺に参詣に行っている者もいて、ご城内では意外なことにあわてふためき、取り乱していた。信長公は遊びほうけていた者をくくり縛って罰し、桑実寺に参詣している女房を差し出すようにつかわしたところ、お詫びを申し上げた長老をも同時に成敗された。

 4.13 信長公は、長谷川竹、野々村三十郎の両名にご知行を過分に下された。

 4.16 若狭国の逸見駿河守が病死し、三千石は武田孫八郎に、五千石は惟住五郎左衛門(丹羽長秀)が幼少から召し使っていた溝口竹(金右衛門)に下された。4.19に武田・溝口の両名が岐阜へ参り、知行拝領のお礼を申し上げた。

 

北畠信雄、伊賀の国退治

 9.3 三介北畠信雄殿を伊賀国に差し向けられた。

甲賀口から、三介北畠信雄をはじめ、甲賀衆、滝川左近将監一益、蒲生忠三郎、惟住五郎左衛門(丹羽長秀)など

信楽口から、堀久太郎、池田孫次郎、山岡孫三郎、不破彦三など

加太口から、滝川三郎兵衛を大将として伊勢衆・織田上野守信包

大和口から、筒井順慶・大和衆

以上のように諸方から一斉に乱入した。柘植の福地には人質を条件にお許しが出た。不破彦三を警固役として当城に入れておかれた。

 阿山の川合(三重県に所在)の田屋と申す者が、名物の「山桜」の茶つぼと「きんこう」の茶つぼを進上し、降参申した。信長は「山桜」のほうだけを手許にお置きになり、田屋は滝川左近にあずけ置かれた。

 9.6 信楽口と甲賀口が協力して一つになって、敵の壬生野城、佐野具・嶺おろしなどに向かって発進した。三介信雄殿は御台河原に陣を据えて、滝川左近一益、惟住五郎左衛門(丹羽長秀)、堀久太郎、近江衆・若狭衆がつづいて陣を構えた。

 9.8 賀藤与十郎・万見仙千代・猪子・安西ら4人をお召しになり、新たに領地をくださった。

  狩野永徳とその子息、右京亮・木村次郎左衛門・木村源五・岡辺又右衛門とその子息、遊左衛門とその子息、竹尾源七・松村・後藤平四郎・刑部・新七・奈良の大工らはみな小袖を多数拝領し、いずれもいずれも、ありがたく思ったことであった。

 9.10 伊賀国の佐野具・嶺おろしにほうぼうの隊が攻めかかり、伊賀国の寺々、一の宮の敢国神社をはじめことごとく焼き払うと、佐野具城から足軽が討って出てきた。滝川左近一益・堀久太郎の二人が屈強の侍十余騎を討ち取った。

 9.11 佐野具城を落とす予定であったが夜のうちに敵は退散してしまった。佐野具城には三介信雄殿がお入りになった。他の軍勢は奥の郡を攻撃した。

  阿加郡は三介信雄殿、山田軍は上野守信包殿、名張郡は惟住五郎左衛門(丹羽長秀)・筒井順慶・蒲生兵衛大輔らと若狭国衆で、阿閉(あや)郡は滝川左近一益・堀久太郎・不破河内守光治・山岡美作守・池田孫次郎らと甲賀衆で始末され、上の服部党・下の服部党らをなで切りにした。

 このほかに一揆が大和国境の春日山方面に逃げ込んだのを筒井順慶が山々に分け入り、大将格75人をはじめ多数の者を切り捨てた。

 伊賀四郡のうち三郡は三介信雄殿のご知行地、残り一軍は織田上野守信包殿の領地となった。

 中国の因幡国鳥取から高山右近が帰り、鳥取城のようすを絵図面で詳細にご報告申し上げ、信長公からおほめにあずかった。

 10.5 稲葉刑部・高橋虎松・祝弥三郎の三人に領地をくださった。

 10.7 信長公は朝方愛知川で鷹を放って獲物をとり、お帰りに伴天連の詰所によられ、伴天連のための家の普請状況をご覧になり、あれこれ指図をなさった。

 

信長、伊賀の国へ向かう

 10.9 信長公は、岐阜中将信忠卿・織田七兵衛信澄殿の同行で平定した伊賀国のご見物に向かわれ、甲賀郡水口にある飯道寺にお登りになり、ここから国内の状況をご覧になって、当寺にご一泊になった。

 10.10 伊賀一宮にご到着になり、この宮の上の「国見山」という高山にお登りになって、国内の様子をご覧になった。信長公の御座所の御殿は滝川左近将監一益が申し分なく建ておき申した。

三介信雄殿、堀久太郎、惟住五郎左衛門(丹羽長秀)らも、御殿・御座所を人に負けじとみがきにみがいて造り申した。信長公のご果報はたいしたものであり、人々がそのご威光に恐れるありさまは筆舌に尽くしがたいほどであった。

 10.12 信長公は三介信雄殿の御陣所、つづいて筒井順慶・惟住五郎左衛門(丹羽長秀)の陣所、奥の郡の小波田(名張市)まで、お供にご家老衆十人ばかり召し連れてお見舞いになり、すみずみの要害を必要とする所々をご指摘になり、その建造を命じられた。

 10.13 伊賀国一宮から安土城にお戻りになった。

 10.17 長光寺山でお鷹をお使いになった。伊賀国が平定され、派遣されていた軍兵たちはみな帰陣の途に着いた。

 10.20 信長公は、伴天連の住宅を建てさせることをお考えになり、お小姓衆・お馬回り衆へ命じられ、足入沼をうずめさせ、町屋敷を築かせることになって、その工事が行われた。

 

信長、末子津田勝長と対面

 11.24 犬山のお坊殿(織田信房)が初めて安土に参り、信長公にごあいさつになった。この方は武田信玄公から信長公の末子を自分の養子にいたしたいと申し入れがあって、甲斐国においでになったが、武田家と和平が整わず、武田方から送り帰り申したのである。信長公は犬山城主としてお迎えになった。

 

 この5月連休明けの『どうする家康』では、1573年に徳川家康が武田信玄と勝頼親子らに三方ヶ原の戦いボロボロにされて、命からがら浜松城に逃げ帰るという状況ですが、8年後には家康が反撃をしている状態です。

 

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