『論語』の孔子が生まれ、のちに政治を担当した国”魯”
その1 周代の魯国
日本でも愛読者の多い『論語』、2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公の渋沢栄一も『論語と算盤』という本を書くなど、今でも影響を与えているその『論語』といえば孔子とその高弟たちの言行録です。その孔子が生まれ、そしてのちに仕えた国”魯”についてです。
周公旦(周の武王の弟) 周王朝を支える。
孝行者で、兄弟並はずれていつくしみ深かった。武王即位後は武王を輔翼し、政務を担当。
武王11年に牧野にて殷の紂王討伐をたすけ、その功績により、少昊の故地曲阜に封ぜられたが、赴任せずに、王城に留まって武王を助けた。
(殷討伐し、箕子を釈放、殷の王室の祭祀を継続させるために、紂王の子の武庚禄父を諸侯に封じ、管叔と蔡叔に後見、あまねく功臣や周の同姓・外戚を諸侯に封じた)
武王が殷を滅亡させて2年経つも天下は安定していなかったが、武王が病に犯され、不治の病なのかの吉凶を占おうとしたときに、周公は病の武王発の身代わりになり死のうとしたが、亀卜で占うと吉であったので止めて、告文の策(ふだ)を金属で封鎖した箱にしまったところ翌日全快した。
武王死去、後継ぎの成王は幼少であったので諸侯が背くのを恐れ、成王に代って摂政として国事に当たった。
管叔らは、周公が成王に取って代わろうしているといいふらしたが、武王が早く世を去り、成王が幼少であることから、代って周を完成させるために摂政になることの詩をつくり、成王に贈り、成王も信用した。
子の伯禽(魯公)を魯の封国に就かせた。
武庚禄父、管叔、蔡叔らが淮夷を率いて謀反し、成王の命で周公が討伐し、管叔を誅し、武庚を殺し、蔡叔を追放した。殷の遺民を康叔(武王の末弟)を衛に、微子(紂の庶兄)を宋に分けて、祭祀を継がせるとともに、淮夷や東方の国を平定した。
すると天が瑞兆をくだし、唐叔(成王の弟)は、茎が二つながら穂が一つのめずらしい禾(いね)を得た。
成王7年、周公は占って吉兆を得たので、雒邑を東の都成周をここに築いた。
成王が成人したので、周公は大政を奉還し、北面して臣下としての位置についたが、周公を讒言するものがあり、楚に出奔したが、成王は自分のことを思う周公の書類を見つけ、感涙して呼び返した。
周公は帰ると、成王が治道を枉げ、淫蕩放逸に流れるのを恐れて、「多士」「毋逸(ぶいつ)」を作って、戒めるとともに、周の官制を定めた「周官」や「立政」を定めた。
周公が死去すると、秋の収穫に先立って暴風雷電が起こり、禾がみな伏し大樹はことごとく倒れた。周公が武王の身代わりに死のうとした文書が入った箱の存在を知り、周公の徳を顕わしたもので、周公の霊を迎えるだけだと、成王が郊外に出て、天に祈ると、雨が降り、風が反対に吹きかり、禾がことごとく立ち直った。二公は国人に倒れた大樹をすべて起こし、土を築いて固めるように命令して行うと、この年は大豊作となった。そこで成王は魯国に命じ、郊外で天を祭り、文王を祭ることをできるようにした(魯の天子の礼楽があるのは、周公の徳を褒賞するため)。
「毋逸(ぶいつ)」
人の父母となって家業を治めるときは、いたって長久の計を立てるが、子孫が驕慢で、その業を忘れその家を滅ぼしてしまう。人の子として慎まないでよいものだろうか。
むかし殷王中宗(太戊)は恭敬をたっとび、天命を畏れて、自らその身を律し、民を治めるのに自らふるいおそれ、荒怠安逸をむさぼろうとしなかった。75年の久しきに及んだ。
殷の高宗(武丁)においては、久しく民間で苦労し、庶民たちと事を共にしたが、立って王位につくと、父の喪に服して、3年の間軽々しくものを言わなかった。喪があけると初めてものを言ったが、その発言はみな民に喜ばれた。
殷王祖甲においては、ただいたずらに王位にあるのを不義とし、久しく庶民に伍して民間にいた。それゆえ庶民のたのみとするものを知り、よく人民を保護して徳を施し、妻なきもの、夫なきものを侮らなかったので、国家をうけつぐこと33年に及んだ。
「多士」
殷の湯王から帝乙(紂の父)まで、祭祀を行わないものがなく、帝徳を明らかにしないものがなく、帝として天の広大な徳にたぐわないものがなかった。
紂は、荒淫逸楽し、天や民の従り順うところを顧みないので、民はみな起って紂を誅ねばならないという。周には賢士多く、文王は日中より日の暮れるまで食事の暇なく政治に励んだ。それゆえ国家をうけつぐこと50年に及んだ
伯禽
魯に行き、政道を周公に報告するのに3年かかった(太公望も斉に封ぜられ、5ヶ月で政道を周公に報告した)ことに、魯は後世、斉に臣事となるだろうと嘆息した。
武庚禄父、管叔、蔡叔と淮夷・徐戎も反乱し、伯禽はこれを攻撃し、ついに徐戎を平定した。
子の孝公酋→弟の煬公熙→子の幽公宰(14年弟に殺害される)→弟の魏公ヒが自立→子の厲公擢→弟の献公具→子の真公濞(周の厲王が晋に出奔し、大臣らが共和して政治を行った)→弟の武公敖
武公敖
9年 長子括と末子戯と西行し、周の宣王に朝見した。宣王は戯を臣下の諌めを聞かず、戯を魯の太子とした。帰国後、武公死去し、戯が即位(懿公)。
懿公戯(き)
兄括の子伯御は国人とともに懿公を攻め殺して、即位した。周の宣王は魯を攻め、伯御を殺し、懿公の弟称を即位(孝公)させた。この後、諸侯が周の王名を背くものが多くなった。
孝公称
25年 諸侯は周室に背き、犬戎が周の幽王を殺害した。秦が諸侯に
27年 死去、子の弗湟が即位(恵公)
ここから春秋時代に入ります。