焼きそばをつくることにした。
冷蔵庫に余っていた野菜、玉ねぎ、キャベツを切って、ソーセージも用意して。
家族ににんじんとピーマンもあるよ、と言われたが、
…うーん
と、一瞬考えたが、
「やだ!」と言った。
ピーマンは入れたくない。
にんじんも…ちょっとだけならいいけど。
ピーマンとにんじんが入ってる焼きそばはいやだ←
茶色い、ソースの色がしてて欲しい。
しんなりした玉ねぎとキャベツ、豚肉もしくはソーセージと紅しょうが。
以上。
そういうことを、ハッキリ言うようになったのはここ一年くらい。
ある意味めちゃくちゃ子どものようになった←
今までの私の人生は、
小さな頃から好き嫌いしないで、残さず何でも食べて、よくある子どもの偏食は一切しなかった。
それは親の教育方針で厳しかったし、良い子ちゃんをやっていたので、ちゃんと言うことを聞いて反抗しなかった。
昔カナダでホームステイをした時、それまた何でも好き嫌いせず食べていたので、ホストマザーに「好き嫌いのない子」と思われていた。
(かなり我慢していたし、無理していたんだけど)
そうやって長年自我を出さずに抑圧していたので、大人になってからは自分は本当に好き嫌いがないと思っていた。
実際会話の中で良く言っていた気がする。嫌いな食べ物は?と聞かれて、私好き嫌いありません!と。
今思えば麻痺していただけで、好き嫌いが「分からなくなっていた」ということなんだけども。
去年それに気付かされるキッカケがあって、徐々にリハビリ的に「本当に私はこれを好きなんだろうか?」と自分に問うようになった。
思考で考えたら分からなくなるので、食べた時の感情、身体に聞いてみることにした。
そうすると、そう言えば今までだって好んでは食べてこなかったものって、やっぱり好きではないんだよな、と気付いた。
なんだか、テンションが下がる感じ。
それが分かりやすく「にんじんとピーマン」だった←
今までは栄養があるから、とか彩り的に、という理由で入れたり、食べてきた。
でもにんじんとピーマンがメインの料理ならまだしも、別に入ってなくてもいい料理にわざわざ入れなくてもいいやん
成長期の子どもでもあるまいし
もういいやん
焼きそばくらい、シンプルに食べさせろ
と、思えるようになった。
自分に許可が出たということなのだろう。
そうしたら、好き嫌いを意思表示できるようになって、
周りは「そうだったんだ?知らなかった。好きなのかと思ってた!」
と言われることが多くなった。
そうか、本当に当たり前のことなんだけど、意思表示や自己表現しないと、周りには分かってもらえない。
それが幼少期に出来なくて(しちゃいけないと思ってて)そのまま大人になってしまった。
親も友人もビックリしていたし、ホストマザーだって知らなかっただけなのだ。
確かにあの時、同時期に一緒にホームステイしていた子はかなり偏食で好き嫌いが多かったのだが、
「本当にしょうがない子だな」と思いながらも、どこか彼女が羨ましかったのは、自己表現してそれを相手に理解してもらう(そして受け入れてもらう)、という行為そのものが羨ましかったのだな、と気付いた。
だから今子ども時代に戻った、と言っても、
今が人生で初めて好き嫌いを言うようになったのだ。
でも周りには何の問題もなく受け入れられて、
「そんな世界オッケーなんだ?!」
とビックリしたし(私にとってはバンジーだった)
そうすると食べ物に限らず、好き嫌い、YES /NOをきちんと意思表示できるようになって、
それなのに上手く循環して、
幸福度も高くなって、
本当の自分として純度高く生きられるようになった。
自分に許可を出せたら、自分の世界が変わって、それに比例して外の世界も変わった。
それに気付いた大きな学びだった。
だから今日の焼きそばも、自分に嘘つかずに作ったもんだから、美味しさも増し増し。
やっぱりピーマン入れなくて良かった~
と、思いながら口いっぱい焼きそばを頬張っていた今日の寝太郎。
おやすみ寝太郎。夢の中でもこの焼きそば理論を色んな人に伝えよう。