萩尾望都の作品には様々なテーマが扱われていますが、その多くのテーマの根本に、「排斥」のテーマがあると考えています。
この「排斥」という根本テーマは、多様な領域で表現されます。
「社会」、「家族」、「個人の意識」、「非日常(祝祭)」、「恋愛(共感)」などです。
このページでは、祝祭のような「非日常」という領域において「排斥」がどのような具体的なテーマとなり、どのようなモチーフ(設定、構図)が使われ、どのような物語になり、具体的にどの作品でそれが描かれているがについてまとます。
少し抽象的な話になりますが、作品論のページを読む上での解釈の枠組みになります。
萩尾作品は、基本的に「排斥」に否定的で、「排斥される者」に同情的に描かれます。
そして、萩尾作品の歴史は、各作品で発見した問題を継承し、「排斥」をなくすことができないかという根本問題の解決(ハッピーエンド)を追求した歴史です。
<非日常における排斥>
「非日常」という領域における「排斥」は、「供犠」というテーマとして現れます。
「非日常」は、具体的には、「祝祭」や年に一度の祝日・記念日、週末、性的行為、SFでは太陽が隠れる食、といった非日常的時間です。
「日常」の秩序は「排斥」によって成り立っていますが、「非日常」ではそれが一時的に「解放」されます。
そして、何者かがその罪のすべてを背負った生贄(供犠)として、「再排斥」されて「日常」に戻ります。
「非日常」は、「排斥」の正当性(再排斥)と不当性(解放)の「矛盾(二重性)」が明らかになる時間です。
「供犠」にされた者は、「求められる者」でもあり「排斥されも者」でもあり、この「矛盾」を体現する者になります。
そのため、「供犠」にされた者は、まともなアイデンティティが保てなくなりがちです。
具体的な作品の例では、「偽王」がこの構造そのものを描き、王の代替わり祝祭の期間に虐殺を行った王が「贖罪の供犠」として追放されます。
「オイディプス(シリーズここではないどこか)」でも、祝祭は描かれませんが、オイディプス王が父である元王を殺し、母と結婚した後、自ら「贖罪の供犠」として追放されます。
また、「小鳥の巣(ポーの一族)」では、創立記念日前日にロビンが「狩られ」、命を落としました。
「銀の三角」では、白夜の開ける時に、パントーの楽人が「供犠」となって光を呼びました。
「ハーバル・ビューティー」では、革命と呼ばれる祝祭的時期に夜来香星人の女性たちが一体的存在になって、異質な者である主人公のルゥをそこから排斥しました。
<非日常的な愛>
「残酷な神が支配する」では、グレッグやイワンが、ジェルミと行う週末の愛の行為が、一種の祝祭的な「非日常」として描かれます。
ジェルミは、週末にグレッグから暴力的な性行為を強要され、「供犠」とされました。
ジェルミは、矛盾を体験する存在としてアイデンティティが保てなくなり、強い「自己否定する者」になりました。
つまり、この作品は、「非日常的」で祝祭的な、「排斥」を前提とする矛盾した「供犠的」な愛と、そこからの「解放」を描いています。
<王>
また、「王」という存在は、その存在自体が「非日常」です。
これについて萩尾作品は明確には描きませんが、「王」の息子が「供犠」として描かれます。
「銀の三角」では、王が息子ル・パントーを何度も殺されました。
「モザイク・ラセン」ではラドリが王の息子にされ、「供犠」にされそうになりました。