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萩尾望都の諸作品のテーマと継承

萩尾望都の諸作品の解釈とテーマやモチーフの継承について、萩尾望都作品論。

萩尾望都の最初のシリーズとなったのがSFの「精霊シリーズ」(精霊狩り(1971)、ドアの中のわたしの息子(1972)、みんなでお茶を(1974))です。


このシリーズは、社会における「異質な者」を「排斥」するテーマをはっきりと打ち出しています。
この作品で使われたテーマと多くのモチーフは、この後の諸作品に継承されることになります。


この作品のテーマはシリアスですが、コミカルなタッチで描かれます。


「精霊シリーズ」は、第三次大戦で多くの知識が失われてしまった未来が舞台の物語です。
人間の中に、「精霊」と呼ばれている存在が隠れて生活しています。
精霊は、人間から見ればほとんど不老に見える「長寿」で、様々な「超能力」を持っています。


人間は「精霊」を見つけると、「狩って」、永久冬眠にしようとします。
つまり、「精霊シリーズ」は、「長寿」、「超能力」を持つ者として表現される「異質な者」を「排斥」する物語です。


先に書いたように、「排斥」のテーマや、「長寿(不老・不死)」、「超能力」のモチーフは、この後の諸作品に継承されることになります。


「超能力」を持つ者を「排斥」するという設定は、SF短編小説「ソンブレロ」を読んでヒントを得たそうです。
この設定は、この後もすぐに、「あそび玉」や「キャベツ畑の遺産相続人」にも続いて使われました。

 




<精霊狩り>


シリーズ第一作「精霊狩り」は、女性の精霊のダーナが狩られ、裁判にかけられてしまいます。
ですが、人間のリールとの恋が民衆の同情を買います。
それでも、裁判で「永久冬眠」の有罪が下ります。


ところが、精霊がテレポートして助けに来ます。
「永久冬眠」の罪は表向きの形だけものので、実際には、誰も刑を受けていない、という結末です。


「排斥」の感情に対して、「愛(恋)」がそれを抑止する可能性を持つものとして描かれています。


ですが、「長寿(不老)」の精霊と普通の人間との「時間」のズレによって、この「愛」は成就しません。
つまり、精霊の持つ「異質な者」という性質は、なくならないのです。


また、精霊が実際には捕まらないということは、人間の中の「異質なもの」は「排斥」しきることはできない、ということを示しています。


そして、精霊は人間をからかう存在として描かれていて、「排斥」に対する楽観的な見方が表現されています。
これはコミカルな作風と一体です。


また、精霊が「飛行」の能力を持つことは、「異質な者」の自由さを表現しています。
 


<ドアの中のわたしの息子>


シリーズ第二作「ドアの中のわたしの息子」では、ダーナが人間の子を身ごもります。
また、男性の精霊イカルスも人間の女性に子を生ませました。
このようなことは、以前にはなかったのですが。


これによって、精霊が人間とはまったく異なる妖精のような存在ではなく、一種の新人種であること、新しい時代が始まろうとしていることが判明します。


また、ダーナの息子はお腹の中から予知をしてテレパシーで危険を伝えますが、ダーナは息子にコントロールされるのではないかという不安を覚えます。


子供が生まれることは、普通の人間と「異質な者」、つまり、「排斥する者」と「排斥される者」の間の「本来的な」同質性が表現されています。
そして、その間の交流、ひいては「排斥」がなくなることの期待が表現されています。


また、息子にコントロールされる不安は、超能力の否定的側面である、個が保てないということを表現しています。
このモチーフも後の諸作品に継承されます。

 


<みんなでお茶を>


シリーズ第三作「みんなでお茶を」では、ダーナとイカルスは結婚し、息子を生みます。
ですが、生まれた息子のルトルは、2年間眠り続けています。


イカルスの娘のチャシーは、人間の母を求めて家出して、狩られそうになります。
ダーナ、イカルスらがチェシーを助けますが、この時、眠っているルトルも超能力を使って協力します。


「眠り続ける」ことは、「排斥されるもの」が、無意識的なものであるということを表現しています。
このモチーフは、「ポーの一族」、「マージナル」のキラの一人、「バルバラ異界」の青羽などに継承されます。


精霊と親しく、精霊を狩らない人間のティペント博士が登場しますが、彼らは精霊が有翼人種(天使)と有尾人種(悪魔)の子孫であると推測します。


「精霊」を天使や悪魔の子孫として位置づけていることは、「異質な者」を両義的な存在として表現していることになります。
このテーマも、後の諸作品に継承されます。


また、イエスは有翼人種が人間に生ませた者だったが、「異質な者」として「排斥」されたのだと解釈します。


そして、精霊が子供を生み、代々つづいていけば、「一つのパターンを築き、今まではまれであった異質なるものの存在もまれでなくなる」と考えます。


一方、ダーナらは、精霊がどこから来たのか疑問を持ちます。
そして、チャシーは、狩られる心配をなくすにはどうしたらいいのか疑問を持ちます。


自分たちがどこから来たのか、どうすれば排斥されなくなるか、という登場人物の発言は、萩尾望都の疑問であり、問題意識を正直に表現したものでしょう。
この「存在への問い」、問題意識も、「ポーの一族」、「百億の昼と千億の夜」、「スター・レッド」などの後の諸作品に継承されます。


博士達の発言からすれば、「異質な者」が「異質な文化」を継承し、それを確立することが、その解決法であると表明しているようです。


また、新しい時代が始まりかけているという認識は、おそらく、萩尾望都が当時の文化が、新しく変わろうとしていると考えていたことの反映でしょう。


当時は、すでに学生運動やヒッピー・ムーヴメントなどは一種の敗戦をしていました。
ですが、新しい少女漫画の表現が生まれつつあった時代でした。


ですが、このような楽観的な見方は、他の作品には見られないものです。

 

精霊シリーズには、当時、萩尾望都と仲が良かった竹宮恵子、増山法恵をモデルにした精霊が登場します。
ですが、萩尾望都はこの二人と絶縁状態になったため、このシリーズを終了することにしたそうです。(「一度きりの大泉の話」)