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萩尾望都の諸作品のテーマと継承

萩尾望都の諸作品の解釈とテーマやモチーフの継承について、萩尾望都作品論。

「雪の子」(1971)は、萩尾望都が初めて「少年愛」をテーマにした初期の短編作品です。
ですが、少年が愛した相手の少年は、実は、男装した少女でした。

それゆえに、竹宮惠子の「少年愛」のプロデューサー的存在であり、「少年愛」の伝道者だった増山法恵からはダメ出しをされた、と萩尾望都は書いています(「一度きりの大泉の話」)。


ですが、この少年が実は少女だったという設定は、萩尾望都にとっての「少年」、「少年愛」の本質を示しています。
この点で、「雪の子」は重要な作品です。



*掲載書籍の一例
 


エミール・ブルクハルトは、遺産相続に関わる理由で、女性にあるにも関わらず、少年として育てられました。
彼女は、「ぼくは少年として、これっぽっちも、きゅうくつな思いなどしなかった」と言います。


つまり、少女にとって、「少年」とは自由な姿です。
これは、萩尾望都が描く「少年」とは、少女がそうありたいと願う「自由」な姿、「本来的な自分」だということなのです。


ですから、エミールは男装している少女ですが、この作品が本当に表現しているのは、「少年」こそが本来の姿であって、「少女」の方が仮面だということです。

 

 

エミールは、もうすぐ13歳になる年齢です。
「ポーの一族」や「トーマの心臓」の少年の年齢設定は14歳ですが、これとほぼ同じです。


そして、彼女は、次のように言います。


「ぼくにとって…一番すばらしい時期は今!」
「ぼくが少年から大人になるってことは罪悪なんだ」
「ぼくは自分が一番美しい時に死ぬつもりだ」
「これ以上大きくはなれない…からだがどんどん大きくなる時期になる」


この発言には、物語の中では、もう男装で騙せないという文脈があります。
ですが、「美しい」という表現があるように、これらのセリフが暗示しているのは、少女が女性になると、もう「自由」ではいられない、ということです。


少女が「自由」でいることが、「美しい」ことであり、加齢による生理的、もしくは、社会的な理由で、それを捨てることは「罪悪」なのです。


エミールは、雪が白く降り積もった日に、雪の上でナイフで手首を切って死ぬことが、自分にとって美しいハッピーエンドだと語ります。
デカダンスで耽美主義的な「死」の美学ですが、これも少女の「自由」と無関係に考えることはできません。

また、エミールの「死の美学」は、「もう明日へは行かない」と言った「ポーの一族」のエドガーにも継承されます。


 

主人公のブロージーは、エミールの親戚で、エミールを好きになります。
そして、彼は、エミールの美しい少女の姿を見て、彼女が少女であることを知ります。
ですが、自分が好きだったのは、「少年」のエミールだと自覚します。


主人公のブロージーは、少年(男性)にはこうあって欲しいという願いを投影した存在でしょう。


と同時に、彼も自由な姿の少女だと解釈することもできます。
であれば、この作品が描く「少年愛」とは、少女が自由を求め、その自由な姿を愛すことです。

 

 

この「少年」=「少女が望む自由な姿」ということを、「排斥」という観点から見ると、「少年」=「社会が望まない少女の姿」であり、少女にとっての「排斥されるもの」なのです。


このように、萩尾望都にとっての「少年」は、「排斥」のテーマと一体です。


また、少女のエミールと少年のエミールの二重性・対照性は、その後の諸作品に現れる両性具有や、「内的女性性」、対照的な双子・兄弟といったモチーフの大本になっているのでしょう。