「トーマの心臓」(1974)は、「スター・レッドの続編は書かれたのか?」に書いたように、竹宮惠子に誘われて見に行ったフランス映画「寄宿舎~悲しみの天使~」がきっかけになって描かれた作品です。
この自殺して終わる映画の結末に納得できず、自殺から始まる続編的な物語として構想されました。
「トーマの心臓」は1974年に連載・発表された作品ですが、その構想は早く、そのスピンオフ的な短編である「11月のギナジウム」(1971)に先んじています。
両作には設定に違いがあり、両立するものではありませんが、非常に似た物語になっています。
どちらも、トーマが自分の命をかけて愛することによって、「自己否定する者」を「解放」する物語です。
<ユーリ>
ユーリは黒髪ですが、これは亡くなった南方系(ギリシャ系)の父親の遺伝でした。
一方、母方は北方系で、祖母は南方系を蔑視していて、南方系の男と結婚した母、そして、黒髪のユーリに冷たくしていました。
ユーリは、母への祖母の批判をはらすために、優等生を演じていました。
つまり、ユーリは、母と自分で二重に批判される者であり、「本来性な自分」を「否定された者」です。
母が批判されている家庭というモチーフは、「11月のギムナジウム」のエーリクと同じです。
また、ユーリは上級生のサイフリートからリンチと性的暴行を受けて、無理やり神よりもサイフリートを信じることを認めさせられました。
性的暴行は描かれていませんが、萩尾望都がそう認めています。(「文藝別冊・萩尾望都」)
父あるいは、年上の男性に虐待を受けるというモチーフは、「メッシュ」や「残酷な神が支配する」に継承されます。
ユーリの父は亡くなっているので、サイフリートは「悪い父」に類した存在です。
ユーリはこの事件を隠し、感情を出さない優等生の偽りの仮面を被ります。
そして、誰も愛さない、愛する資格のない者であると考えるようになりました。
こうして、彼は、あるべき自己像を作れない、そして、あるがままの「本来的な自分」を失った「自己否定する者」となりました。
「愛を捨てた者」というモチーフは、「メッシュ」のメッシュ、「残酷な神が支配する」のジェルミ、「海のアリア」のアリアドに継承されます。
前二作は大人版「トーマの心臓」、後者はSF版「トーマの心臓」と言える作品でしょう。
<トーマ>
トーマは、誰からも愛され、口より先に目ですべてを語る、天使的な性格の少年です。
つまり、「本来的な自分」そのものであるような、「自己否定しない者」です。
トーマはユーリを愛し、ユーリが「自己否定」していることに気づきました。
そして、ユーリを救い、「解放」するために、投身自殺(墜落死)をして、その意図を手紙にして残します。
まず、トーマは、この手紙の中で、ユーリのことを「友人」と記し、「愛」していると記します。
手紙の中で最も重要な点は、トーマが「彼が僕を愛さなければならないのだ」、と書いたところです。
そして、トーマは、ユーリに、「誰も愛さずに生きていけるのか?」と聞いていました。
これは、ユーリが「自己否定」をやめ、自分中の人を愛する感情を認め、自分を愛し、愛される資格を持たない者であるという考えを捨てなければいけない、という意味です。
後に、ユーリも、「ぼくはトーマが好きだった。…僕は彼を、というより、自分をうらぎったんだ」と述べます。
自分がトーマを愛していることを否定することは、自分へのうらぎり、「自己否定」なのです。
トーマは、自分がユーリを愛していることを伝えて、ユーリが愛される資格があること、人を愛すべきであることを示す必要がありました。
トーマが自分の命を引きかえにしたのは、ユーリへの愛が茶番ではなく真実のものであることを証明しなければいけなかったからでしょう。
トーマ自身の主張を離れますが、トーマは先に書いたように、「本来的な自分」の象徴です。
そして、「自己肯定」の象徴であり、愛することを肯定する者です。
ですから、ユーリがトーマを愛することは、「本来的な自分」を愛し、「自己解放」することです。
「トーマの心臓」は、「自己否定する者」であるユーリと、トーマが愛することによって彼を「解放」する「解放の物語」です。
「自己否定する者」を「愛」や「信じる」ことによって「解放」するテーマは、「メッシュ」、「X+Y(一角獣種シリーズ)」、「マージナル」、「海のアリア」、「残酷な神が支配する」などに継承されます。
<エーリク>
ユーリは、トーマの意図を理解できず、トーマの記憶を封印しようとしました。
ですが、トーマそっくりのエーリクが、転校してきます。
エーリクは、トーマ以上に感情をそのまま表現する、短気で天真爛漫、同情深い性質です。
そして、トーマ同様に、直観力を持ち、他人が隠していることを見抜きます。
この「直観力」、他人の深層に隠れた部分を理解するテーマは、「超能力」や「共鳴」、「感応」、「他人の夢を見る」といったモチーフとして、「X+Y(一角獣種シリーズ)」、「海のアリア」、「バルバラ異界」などにも継承されます。
エーリクは、トーマと同じようにユーリを愛し、トーマの自殺の意図を理解しました。
トーマそっくりのエーリクが、ユーリに「翼をあげる」と言った瞬間、ユーリもトーマの自殺の意図を理解しました。
そして、トーマが、自分に「誰も愛さずに生きていけるのか」、と問うたことを思い出しました。
つまり、「翼」とは「愛する能力」であり、「本来的な自分」を「肯定」することです。
そもそも「愛」は「肯定」であり、それを「肯定」することも「愛」です。
「翼」、あるいは「飛行」のモチーフは、「モザイク・ラセン」、「X+Y(一角獣種シリーズ)」、「海のアリア」、「残酷な神が支配する」、「バルバラ異界」など、多くの作品に継承されます。
ちなみに、「飛行」の反対は「墜落」ですが、トーマは「墜落死」しました。
この「墜落」のモチーフは、「小鳥の巣(ポーの一族)」、「X+Y(一角獣種シリーズ)」、「残酷な神が支配する」などにもあります。
ですが、トーマの場合、「翼」を持った者が、「翼を与える」ために「転落」したという点で、他の作品とは意味が異なります。
<キリスト教とヒューマニズム>
ユーリは、トーマの真意を理解して、「もう一度、主のみ前で心から語りたいと思い」、神学の道に進むことを決めました。
エーリクは、トーマが自分の手紙を挟み込んだ本『ルネサンスとヒューマニズム』をユーリに渡します。
そして、ユーリが、神学校へ転校するためにギムナジウムを離れる列車の中で、この本の中からトーマの手紙を見つけて読む姿で、「トーマの心臓」は終わります。
SF・ファンタジー評論家の小谷真理のように、トーマの行為がイエスの「贖罪」に当たるとか、トーマの愛がキリスト教の「アガペー(神の愛)」に当たるといった解釈をなされることがあります。(「100分de萩尾望都」)
確かに、ユーリは何度もキリスト教に関わる言及をしていますが、トーマはしていません。
実は、「トーマの心臓」のテーマには、キリスト教的なものに隠れて、異教(ルネサンス・ヒューマニズム)的なものが色濃くあります。
『ルネサンスとヒューマニズム』という本を、サイフリートもユーリもトーマも読みました。
そして、トーマは手紙をこの本にはさみました。
このことは、テーマの核心がルネサンス・ヒューマニズムであることを示しています。
サイフリートのレポートはそれを悪魔主義的に曲解しましたが、トーマの手紙はそれとは違うことを伝えました。
サイフリートは翼を奪い、トーマは翼を与えます。
ユーリはトーマとエーリクのことを「恋神(アモール)」と表現しています。
これは翼を持つローマの神であり、ギリシャのエロスに当たる異教の神です。
エロスは、ルネサンス・ヒューマニズムを象徴するヴィーナスの息子であり、人間同士の愛を契機に天上界に飛翔させる存在です。
ユーリはトーマやエーリクの愛に、異教的な「エロス」を見ています。
そして、それを認めることがルネサンス・ヒューマニズムであり、トーマが体現し、ユーリに伝える必要があったものです。
トーマとエーリクがユーリにあげようとした「翼」は、天使の翼として描かれていますが、本当はアモール(=エロス)の翼であることが隠されているのです。
また、トーマは、自分の愛が「心臓の音」であると書いています。
これは人間的で肉体的な表現ですから、決してキリスト教の「アガペー」のような神的なものではないでしょう。
ユーリは、トーマが「いっさいを許していた」と言いましたが、「罪を許していた」とは言っていません。
トーマも、「許し」という言葉は使っていません。
そもそも、トーマはユーリがリンチを受けたことも、罪の意識を持っていたことも知りません。
だから、トーマには、罪を贖うといった考えもあるはずがありません。
「いっさいを許す」には、罪の観念なしに、本来的な人間性を肯定するというヒューマニズム的な意味合いが含まれているのではないでしょうか。
もちろん、ユーリは、そこにキリスト教的な「アガペー」との一致を見ようとしているのでしょうが。
ユーリの黒髪はギリシャ系の遺伝子に由来するものであり、それゆえに差別されていました。
これは、彼がギリシャ的異教性を秘めた者であり、リンチ以前からそれを封印された者であることを表現しているのでしょう。
それに対して、ルネサンス・ヒューマニズムは、ギリシャ精神の復興を意味します。
ルネサンス・ヒューマニズムは、人間本来の性愛を肯定するものです。
それに対して、キリスト教は、人間に原罪があったことを前提とし、禁欲を美徳とする思想、つまり、「排斥」を前提とする思想です。
キリスト教の「許し」は罪を前提とし、「否定」を前提とします。
「トーマの心臓」を書いた時点の萩尾望都は、おそらく、キリスト教やギリシャ精神に関して、十分に整理ができていなかったかもしれません。
それに、このテーマを前面で展開するような「場」ではなかったでしょう。
萩尾望都は、この25年ほど後に、「トーマの心臓」と類似したテーマを扱った「残酷な神が支配する」の登場人物に、改めて「エロス」について語らせて、トーマの「愛」の意味を明らかにしています。
それはキリスト教的なものではなく、「錬金術的」とも表現されます。
ユーリ=萩尾望都が、神学(?)を学んだ結果、それはルネサンス的、秘教的(異端的、異教的)なものになったのです。
ですが、確かに、トーマは、自らの命を捨てて、一種の「供犠」になったと考えることができます。
その後の萩尾作品では、「贖罪」としての「供犠」のテーマは、「小鳥の巣(ポーの一族)」、「偽王」、「残酷な神が支配する」などにあります。
ですが、虐待を受けて神を裏切ったことがユーリの罪であり、トーマはそれを贖った、というような
キリスト教的なものではありません。
ユーリは、トーマが罪を身代わりに背負ってくれたから、自分が無罪になったと思ったわけではないでしょう。
トーマの「死」は、もともとユーリに罪がないことを「愛」によって示し、「解放」するのためだったのではないでしょうか。
そういう、否定されたものを肯定する、死せる者を復活させるための「供犠」のテーマは、「スター・レッド」、「マージナル」、「海のアリア」、「バルバラ異界」などにあります。
<サブ・テーマ>
「トーマの心臓」には、愛による解放のテーマとは別に、いくつかのサブ・テーマがあります。
エーリクの成長や、オスカーの愛、父子関係といったテーマです。
エーリクは、マザー・コンプレックスを持つ人物として描かれています。
彼の母は物語の途中で亡くなります。
その後、エーリクは、ユーリの家に泊まった時に、差別を受けながら頑張るユーリの姿を見て、母からの自立を果たします。
この自立は、母との婚約指輪であるとエーリクが言った指輪が抜ける、という形で表現されます。
オスカーは、ユーリと実の父親である学長を愛していますが、その形は、トーマやエーリクの愛の形と対照的に描かれています。
後者が、求め、動かすような「働きかける愛」であるのに対して、オスカーの愛は、「見守る愛」、「待つ愛」です。
オスカーの育ての親は、オスカーを実の父である学長のもとにあずけました。
これとは逆に、エーリクの母の再婚相手は、母が亡くなった後、実の父よりも自分がエーリクを引き取りたいと伝えに来ます。
スピンオフの「11月のギムナジウム」では、エーリクもトーマも、育ての父と血のつながりがありません。
血のつながりのある父子関係は、愛さなければいけないという前提のある関係、あるいは、愛するための条件が存在する関係です。
それに対して、血のつながりがない関係は、その前提が薄く、より人間同士の関係としての愛の有無を考える関係です。
血のつながりのない父子関係のテーマは、スピンオフの「訪問者達」や、「バルバラ異界」に継承されます。
また、「メッシュ」や「残酷な神が支配する」にも、類似したモチーフがあります。
*改めて別サイトで書いた下記文章も是非ご参照ください。
