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萩尾望都の諸作品のテーマと継承

萩尾望都の諸作品の解釈とテーマやモチーフの継承について、萩尾望都作品論。

「ポーの一族」は、萩尾望都の代表的な長編作です。


1972年に、まず、スピンオフ的短編として3作が発表され、その後に3部作の連載となりました。
スピンオフが先で連載が後になるのは、「トーマの心臓」と同じですが、「ポーの一族」の場合は、両者の設定に矛盾はなく両立します。


「ポーの一族」は、最初の単行本の売上が好評だったために、連載が再開され、1976年まで続きました(旧シリーズ)。


その後、40年を経て、2016年に連載が再開(新シリーズ)され、現時点で、まだ継続中です。

 

「ポーの一族」は、バンパネラという「排斥」される存在をモチーフにしていますが、主人公のエドガーは一族のルールを破った者、つまり、二重に「排斥」された者です。
 

そして、その「排斥」されるものが、とりわけ「少年性」として象徴され、それが生産性のない、非社会的な美としても描かれます。


また、エドガーは、愛したメリーベルを失い、その欠如を埋めるための代理としてアランを求めながら、その求めたアランの中にあるものを「排斥」します。
彼は、こういった矛盾、充足の不可能性を体現し、最後に、滅びの道を選びます。

 




<バンパネラという設定>


「ポーの一族」はバンパネラをモチーフにしていますが、これは石ノ森章太郎の「きりとばらとほしと」にヒントを得たものです。
この漫画は、不老不死で時を越えて孤独に生きる美しい女吸血鬼を描いています。


「ポーの一族」は、「精霊シリーズ」の精霊や、「あそび玉」の超能力者に代わって、バンパネラという存在を、社会から「排斥される者」として描いた物語です。
ですが、バンパネラの設定には、精霊や超能力者にはない、様々に絶妙な設定があります。


バンパネラは、人間の血を奪い、その人生を奪うという、「悪」なる側面を持つ、「寄生」的な存在です。
そして、バンパネラは、人間に見つかると殺されるため、隠れ住み、逃走します。


つまり、「ポーの一族」の物語は、「精霊シリーズ」のような「解放」への期待のある物語ではなく、「あそび玉」のような故郷への「追放」の物語でもなく、より厳しい設定になっています。


また、バンパネラは、普通の人間からバンパネラにされた者、なった者なので、他の作品と違って、「排斥する者/される者」が固定されず、「排斥する者」は「誘惑される者」にもなります。


バンパネラは、不老であり、時を止めた「永遠性」を持つ存在です。
人間とは異なる時間を生きている点では、「精霊シリーズ」の精霊の設定を継承しています。
 

ですが、バンパネラは、同時に可死なる「終わり」を持つ存在であることも強調されていて、矛盾する二重性を持ちます。


ポーの一族が人間の血を必要とするというのは、生命力が欠けているということです。
一般に、生命力の欠如が象徴するのは、無意識の否定、つまり、「自己否定」です。

それは、それは「排斥される者」ではなく、「排斥する者」の象徴的な特徴です。


つまり、バンパネラは、本質的には「排斥される者」ですが、「排斥」を内面化してしまい、「自己否定する者」になっているのです。
それは、例えば、親に「否定」されることで、子が「自己否定」する者になることと同じです。


そのため、バンパネラの不老という「永遠性」は、「排斥される」こと、「逃げ隠れする」こと、「自己否定」することの「永遠性」でもあり、これは「自己解放」の不可能性でもあります。


それは、実は、自我を持ち、言葉を持ったがゆえに、欠如を抱える人間の比喩でもあります。

 

これは、エドガーにおいては、メリーベルという愛する存在を失ったがゆえに、永遠の欠如をかかえる者としても表現されます。

 

 

主人公のバンパネラのエドガー・ポーツネルは、人間に向かって、

「なぜ生きているのかって…、それがわかれば! 創るものもなく、生み出すものもなく、うつる次の世代にたくすも遺産もなく、長いときを、なぜこうして生きているのか」

と語ります。


このような「存在への問い」は、「みんなでお茶を(精霊シリーズ)」と共通する問題意識ですが、発表は「ポーの一族」が先です。
そして、「百億の昼と千億の夜」や「スター・レッド」に継承されます。

 


<少年という設定>


主人公のエドガーと、第二の主人公のアラン・トワイライトは、少年バンパネラで、ポーの一族での中で少年はこの二人だけです。


主人公の二人が「少年」である点で、「少年性」というものの「永遠性」が、「ポーの一族」のテーマとして加わっています。
このテーマは、「雪の子」のエミールが、大人になる前に死ぬことを選んだことを継承しています。


エドガーは、バンパネラであり、貴族であり、少年であるという、三重の意味で非生産的、非社会的な存在であり、この作品はそれを、退廃的な美として描きます。


また、エドガーは、勝手に少年アランをバンパネラに引き入れたため、一族内でもルールを犯した者です。
ポーの一族のルールでは、本来、成長期の少年・少女はバンパネラであることがバレやすいので、一族にすることができません。
つまり、「少年」は、バンパネラにとっても、「排斥される者」です。


従って、エドガーは、二重に「排斥」される存在です。


エドガーを「排斥」するのは、大老ポーに象徴される一族の父性的権威と考えることができます。


ですが、同時に、エドガーは、見た目は少年ですが、長い人生を生きているので、賢明さを備えています。
少年にはふさわしくないこの賢明さは、大老ポーが持つ父性と同種のものです。
つまり、エドガーは、バンパネラ内で「排斥される者」であると同時に、「自己否定する者」なのです。


エドガーとアランの性格には、堅実(自己抑制的)/奔放(自己開放的)という対照性があります。


それゆえに、エドガーはアランの行動を度々、制します。
つまり、エドガーは、奔放なアランを求めながら、そのあるがままのアランを「排斥(管理)する者」でもあるのです。

 

 

以上の「ポーの一族」の設定をまとめると、バンパネラは人間に「排斥される者」です。
と同時に、バンパネラは生命力の欠如が象徴するように、「自己否定する者」です。


また、そのバンパネラの中でも、エドガーはポーの一族に「排斥される者」です。
と同時に、エドガーは賢明さが象徴するように、「自己否定する者」です。

そして、エドガーは、アランの奔放な本来性を求めながら、それを「排斥する者」です。


「ポーの一族」の設定には、こういう多重な「排斥」の関係があります。

 


<欠如と代理>


ランプトン卿のように、人間の中にはエドガーに憧れる者もいて、彼らにとって二人は、「永遠」の象徴です。
ですが、旧シリーズのラストではエドガーが亡くなったと思い、エドガーは「永遠の欠如」の象徴になりました。


エドガーとアランにとっては、二人が愛したエドガーの妹メリーベルが「永遠」の象徴です。
ですが、彼女は守りきれずに亡くなってしまったので、「永遠の欠如」の象徴でもあります。


時を止めた「絶対少年」であるはずのエドガーとアランは、「永遠の欠如」を抱えた、充足できない者です。
その原因の大本は、人間による「排斥」です。


「永遠の欠如」をかかえる二人は、メリーベルという「永遠」の代わりを必要とします。
二人にとっては、互いがそれに当たります。


先に書いたように、エドガーは堅実なキャラクターであり、アランは天真爛漫なキャラクターです。
ですから、特に、エドガーにとっては、アランは失ったものの「象徴」です。
新シリーズでは、エドガーはアランに関して「無垢なものがほしい」と言います。


このような対照的な二人の関係は、「トーマの心臓」では、「自己開放的な者」(トーマ、エーリク)が「自己否定する者」(ユーリ)を「解放」する物語となりましたが、「ポーの一族」(旧シリーズ)の中では、時間が停止していて、そのような物語にはなりません。


そして、互いは互いによって、「永遠の欠如」を埋めきることができず、それゆえ、アランは第三の者を加えようとすることにもつながります。

 


<小鳥の巣>


初期三部作の最後の作品「小鳥の巣」は、「ポーの一族」シリーズの中でも、最も人気の高い作品です。
「11月のギムナジウム」、「トーマの心臓」と同様に、ギムナジウムを舞台にした物語であり、少年の死がモチーフになっている点でも共通しています。


その亡くなった少年ロビン・カーは、気が弱く神経が細い少年で、かつてエドガーとアランがバンパネラにするべく迎えに行くと約束していました。
ですが、ギムナジウムでいじめにあい、エドガーとアランの迎えを希求して転落死します。
つまり、この物語も「排斥」がテーマです。


「小鳥の巣」では、「いじめ」を「狩る」という言葉で表現しています。
「精霊シリーズ」を継承する言葉です。


かつてエドガーとアランは、自分たちを「天使」であると、ロビンに語っていました。
ロビンは、希求した「天使」の迎えを幻視しながら「転落」しました。

 

「天使」と関連する「翼」、「飛行」と関連する「転落」といったモチーフは、「精霊シリーズ」や「トーマの心臓」から継承しています。


その一方で、この「転落」のモチーフは、「残酷な神が支配する」の一場面に継承されます。
主人公ジェルミが、空からの日光を見てそれに引かれるようにして、崖から飛ぼうとします。
自分が崖に向かって走っていることに気づかずに。


ロビンの死因については、「小鳥の巣」の中ではほのめかされるだけで、明確にされていなかったので、ファンの間でも議論がありました。
25年ほどたって描かれた「残酷な神が支配する」のこのシーンは、ロビンの死因の謎を明かにするために描かれたようにも思えます。


ちなみに、「トーマの心臓」のトーマも転落死しましたが、これは「翼」をユーリに与えるためのもので、一方のロビンは「翼」を得ようとしたものだったので、その意味は正反対です。

 

 

「小鳥の巣」では、ロビンの死は創立祭の前日の出来事です。
これは文化人類学的に言えば、「更新」の儀礼としての供犠に当たります。


「異質な者の排斥」は、社会が同一性を保つために必要とされるものであり、伝統文化では年の定期的な「更新」の儀礼として儀式化されています。


このモチーフは「偽王」や「銀の三角」、「ハーバル・ビューティー」、「残酷な神が支配する」などに継承されます。

 

 

「小鳥の巣」のもう一人の重要人物は、ロビンを追い詰めた側のリーダーのキリアン・ブルンスウィッグです。
彼は東ドイツから国境を越えて来たのですが、その時に母は殺され、父も送り返されました。


キリアンは、母が死に父と別れて育った点で「トーマの心臓」のオスカー、いじめのリーダーという点で「11月のギムナジウム」のオスカーと共通します。


彼もまた、一種の「排斥」の犠牲者ですが、自分は強くありたいがため、気の弱いロビンをいじめます。
ですが、ロビンを追いつめたことを反省して、髪の毛を伸ばしたままにしています。
つまり、彼は「更新」されなかったのです。


また、キリアンは、バンパネラになりかかったマチアスに噛まれますが、バンパネラにはならなかったというギリギリの体験をします。


つまり、キリアンは、「排斥」の矛盾をかかえ続ける人間です。


この「排斥」されたことで「排斥」する者になるというモチーフは、エドガーにもありますが、「マージナル」のメイヤード、「残酷な神が支配する」のグレッグなどに継承されます。

 


<エディス>


旧シリーズの最終作「エディス」では、アランが転落・焼死します。
そして、アランを失ったエドガーは、「もう明日へは行かない」と語ってシリーズは終わります。
エドガーがどうなったかは、具体的には描かれません。


アランの「転落死」はロビンの「転落死」を思い出させるもので、象徴的にはつながっています。


このように、旧シリーズはバッド・エンドで終わりました。
この作品が、少年バンパネラの「はかなさ(永遠の非永遠性)」と「満足の不可能性(永遠の欠如)」を描いた作品だとしたら、避けられない結末でしょう。


エドガーの「もう明日へは行かない」という「滅び」の意志には、美しさがありました。
それは、「雪の子」の自殺したエミールの美学と似たものですす。

 

ですが、2016年に再開した新シリーズでは、エドガーがアランを追って落下したけれど死ななかったこと、アランも完全には死ななかったこと、そして、エドガーはアランの復活を諦めていないことが描かれます。


この間の萩尾望都に、何があったでしょうか?


例えば、「スター・レッド」のセイが滅びを否定して戦ったとか…
「マージナル」のイワン博士が、死を望みながら、最後の最後で、「逃げろ」と叫んだとか…
「バルバラ異界」の時夫が、息子の死を駄々っ子のように(美しくなく)認めず、解決策を探して生き返らせたとか…
そのセイの生まれ変わりとも言える「バルバラ異界」の青羽が、血を必要とするエズラ一族=バルバラ住民の「排斥」をなくす夢を実現させたとか…