「偽王」は1984年に発表された短編作品です。
この作品は、社会における「排斥」のテーマを、王の交替時における「王殺し」という文化人類学的なモチーフを用いて物語として表現したものです。
おそらく、ジェームズ・フレイザー「金枝篇」の「王殺し」や「身代わり」に関する研究の影響を受けたものでしょう。
「金枝篇」は、世界各地の伝統的な風習・制度、古代の風習・制度を一定のテーマで扱って紹介しています。
「偽王」に関わる具体的な風習・制度としては、以下のようなものが紹介されます。
神聖な力を持つ「王」が、国の豊かさを保証すると信じられたため、「王」が老いると、あるいは、一定の在位期間が過ぎると、「王」は殺され、若い「王」に替えるということが、世界の各地で当たり前のように行われていました。
「王」の交替時に行われる祭りの期間には、すべてが許される狂乱状態や、あるいは、主従関係などの日常の秩序が逆転される状態になりました。
「王殺し」は、「王」が追放される形になったり、「代理」の者が「王」の代わりに殺されたり、追放されたりするようになりました。
代理の者は、一定の短期間、「王」として扱われ、すべてが許された後、つまり、「王」としての聖性を身に着けた後、殺されたり、追放されたりしました。
殺されたり追放されたりした「王」、または、「代理」の者は、国のすべての罪を背負って供犠になる「贖罪者」とされました。
<ヴァルー・ファルーの王>
「偽王」は、ヴァルー・ファルーという美しい国の、王の交替時の「贖罪」の物語です。
この国では、まだ子供の者が新しい「王」となり、数十年の在位の後、1年の狂乱の祭りが行われます。
そして、「王」は国のすべての罪を負った「贖罪者」として追放されます。
主人公の若者は、この祭りの時に、王によって家族を殺され、自分も殺されそうになりました。
主人公は、この時の体験がトラウマになり、その理由・意味に疑問を持ち、旅に出て、贖罪者と呼ばれる追放された「王」に出会います。
主人公の疑問は、「ポーの一族」や「精霊シリーズ」、「スター・レッド」などから継承される、「存在への問い」の一種です。
主人公は、ことの真相を知り、自分の旅の目的が、自分に負わされた「贖罪」の役割を「王」に返し、「王」を殺すことだと理解しました。
そして、主人公は、追放された「王」が流砂に落ちても助けずに、見殺しにします。
主人公は、最後に、追放された「王」に、「聖なる偽王」となすために、「贖罪」を返すと語りました。
<王殺しと排斥>
「王殺し」、「代理王の追放」といった制度では、「排斥される者」は「王」、「代理王」であり、「排斥する者」は国民です。
「王」は神聖な存在、つまり、「異質な者」であり、社会のルールの外にいる過剰な存在です。
それゆえに、「王」は社会に豊かさをもたらすと信じられ、その替わりに社会を超えた権力を持ちます。
「王」の代替わりの祭りにおいては、その祭りの時空そのものが、「異質」で「過剰」なものとなるため、すべてが許されます。
つまり、祭りでは、すべての人間が「王」になるとも言えます。
「王」の交替時や周期的に行われる狂乱を含む祭りと「贖罪」の意味は、一時的な「解放」と再「排除」による日常社会の再生です。
萩尾望都が、なぜ主人公に「聖なる偽王にするため」と言わせたのでしょうか。
この王は、「贖罪者」であるという自覚を持っていないから「偽王」なのでしょう。
祭りの時に殺された主人公の家族は、「王の代理」であると言えます。
ですが、彼らは、何の享受もなく、勝手に「王の代理」を押し付けられて殺されました。
そして、主人公は死に損ないました。
彼らも「偽王」です。
主人公は、王を見殺しにすることで、「王の代理」の役を王に返したのでしょう。
そして、王は、死んではじめて本当の「王=贖罪者」としての「聖性」が持てるのです。
<モチーフの継承>
このように、作品「偽王」は、文化システムとしての「排斥」、「贖罪」を描いたものであり、そこからの解放を描いたものではありません。
過去の作品をでは、「小鳥の巣(ポーの一族)」で、学校の創立記念日の前日にロビンが死んだことは、更新前の祭りの「贖罪者」にされたということを表現しています。
これは、「いじめ」という現代における「排斥」の制度を表現したものです。
文化としての「供犠のシステム」は、「銀の三角」でも描かれました。
「銀の三角」は、このシステムを取り戻すことがテーマでした。
「供犠のシステム」のモチーフは、この後の作品では、「偽王」のすぐ後に書かれた「ハーバルビューティー」や「マージナル」、「残酷な神が支配する」に継承されます。
