前回の続き。
長くなるので、数回にわけて書いていこうと思う。
ことは、昨年の11月に遡る。
私が所属する山岳会の秋季訓練が地元のある山で行われた。
体力的に難易度が高いと感じていた山だったので、私は訓練に参加をしていない。後で送られてきた報告写真の数枚に祠のようなお墓のような建造物が写っていたのを知ったのだが、何か歴史がある所なのだろうなぁ・・・というくらいにしか思っていなかった。
12月に入り、その秋季訓練に参加したメンバーから「あなたなら興味があると思う」とその建造物に関する云われを聞く事になった。それは、戦国時代に落城させられたという山城の城主に関するもの。建造物の横に山城の云われを書き記した立看板があり、この方はそれを読んで私に教えてくれたのである。
立看板の内容を元に、地元の歴史に明るい方々に聞きまわり、歴史博物館や図書館、市役所などにも足を運び、1ヶ月ほどかけてあちこち調べまわったのだが・・・目ぼしい情報は得られなかった。そこに山城があった事は確かなようなのだが、詳しい文献は残っておらず、立看板の内容以上の事を知る事が出来なかったのである。
これ以上調べる手立てがなく万事休すという状態の中だったのだが・・・年を越し、年始の挨拶に立ち寄ったある店で事態が急展開した。それは、ここの店長さんの霊視鑑定による。
実は、私の前世がこの山城の城主を守る役目をもった侍女だったというのだ。しかも、この訓練に集まった方々も山城の関係者の前世をもっているという。さらに、殺された城主が成仏をしていないらしく、それを助ける役目をもって私は生まれてきたのだという事だった。驚いたのは言うまでもない。ほんの興味から歴史を調べていただけだったのに、まさかそこに自分が関わっていたとは思いもしなかった。しかも、訓練に参加した山岳会の方々も関わりがあったとは・・・
この山岳会に入る事になった経緯からしても不思議だった。山岳救助もするような団体で、とにかく会の方々と私の登山レベルの差がありすぎる。消防や警察との合同訓練があったりするので加入すれば自分自身が大変になる事は間違いない。私にはハードルが高すぎる為、ずっと勧誘を断っていたのだが…再三口説かる形で加入。というより、入れられてしまったと言った方がいい。活動を始めた当初から、見えない何かに呼ばれた感がずっとしていたのだが・・・なるほど、前世からの縁があったのならば、何となくわかる気がする。
さて。
この案件と並行するように、ずっと介護をしていた義理の祖母が今年の1月に他界した。この事により、魂の成仏と供養を真剣に考える事になる。同時に、葬儀と宗教という事にも考えが及び、日本における仏教の歴史を空海・最澄という高僧にまで遡り勉強しなおす事になった。葬儀の事後処理や相続手続き等でかなり忙しくしている最中、祖母の供養のためにどうしても必要な事と動いていたのであるが・・・これも山城の案件を調べる上で大事な流れだった。山城の案件には、ある仏教系の宗教団体が関与していたからだ。宗教というフィルタに惑わされないよう対処をする為、仏教の歴史を把握しておく必要があったのである。
祠のような建造物はこの団体が供養をしているものであり、立看板はここが設置したもの。それは、市の歴史文化財を管理する担当者から聞いた事だった。この担当者が言うには、看板の内容は歴史的事実を証明するものではなく、この団体が一方的に立てたものという。山城の調査は以前行われてはいるが、看板の内容に関しては、いっさい関知しないものという見解だった。
証拠となる歴史的な文献がない事だけでなく、些か眉唾な話が含まれているので、市の担当者がそう言う態度に出る事もわかる。しかし、だからと言って看板の内容が全て事実無根とも言えない。宗教団体が関わっていて、こうして看板を掲げるくらいなのだからそれなりの事があったのだろうと私は思った。
手がかりとなるものがこの看板しかない。これ以上を調べるには、書かれていた内容についてこの団体に話を聞きに行く必要性が出てきたのだが、宗教が絡む事には積極的に関わり合いになりたくないと言うのが本音のところ。特にこの団体には、何となくではあるが得体の知れない恐ろしさを感じていた。距離を置きたかったのだが、こうなっては仕方がない。歴史的な興味も確かにあったが、それ以上に、自分の前世や山岳会、城主の成仏に関わっているため、とにかく必死だったのである。
団体にアポイントメントをとり、住職に話を聞きにいった。住職が言うには、立看板にあった内容は先代が霊的な力を使って視たものであり、建造物は落城の際に殺された城主を供養するものだと言う。証拠はなにもないのだが、私は話を信じている。
だが、違和感が拭えない。どうにもスッキリしないのだ。この施設の醸し出す雰囲気といい、住職の様相といい、私の知る仏教施設や一般の住職がもつ感覚とどこか違う。居心地の悪さというか暗さというか、何となくだが低級霊が関わっているような感じがしていた。
しばらく後に、私の前世を指摘した霊能師の方からの指摘で、この住職が私に向けて呪詛をかけている事を知る。これを聞いた時は驚いたが、同時に納得もした。実際にそういう事をやりそうな雰囲気の住職だったからだ。
鋭く執拗に相手の隙を伺う感じがあり、何をしにきた?という威圧感が半端なかった。霊的な事もどこか理詰めで、まわりくどく、核心に迫ると話を逸らす。常に上から目線の物言いで、一ミリたりとも気が許せず始終緊張しっぱなし・・・まだまだあるのだが、とにかく一緒にいると疲れる方だった。
今まで接してきていたお寺の住職の方々は、信仰心もさる事ながら、徳の高さを感じる事が多く、安心して話ができたのたが・・・この住職に限ってはそれが感じられない。心の弱い人ならば、あっと言う間に取り込まれ支配されてしまうだろう。
霊能師の方がおっしゃるには、呪詛を受けてはいるが大丈夫だとのこと。私の先祖の守りが強いので跳ね除けられているからだという。
自分という人間は、先祖の連綿としたご縁によってこの世に生を受けている。その事を感謝するように、とある方から教えていただいていた。幼少期に生母や実の祖母を亡くしている事も手伝い、常日頃から先祖霊への感謝をするようにしていたが、こういった形で守って下さっている事を知り感激した。やはり、先祖への感謝の気持ちは大切なのである。
しかし、守りがあるから大丈夫と思ってはならないような気がした。
自分で自分の身を守れるようにならないと、本当の意味で大丈夫だとは言えない。
それは、空海を調べている時にこんな記述を発見した事から確信となる。
けれども、真理をその身に纏って生活していると、いかなる「呪詛」の念が向けられようとも、一向にその影響を受けないのである。逆に、その向けられた念は、その発した当人へと帰ってゆき、その当人は自分の発した念によって、自分を殺すはめにとなるのである。それゆえ、空海においては、何らの身体的な異変は起こらず、健康なままであった。
この意味においても、「真理」それ自体が、自らの身体および生命をも防御する力となっているのである。「真理」に則って、心正しく暮らしている、ということ自体が、自らの身体の健康を保ち、外的な危険から「守られている」、ということである。
インターネット検索サイトより引用
呪詛は跳ね除けられる!
実際に跳ね除ける事ができたという歴史的人物がいたとは!
「真理をまとう」、これこそが私の目指すところなのだろうと思った。
私に呪詛をかけた住職は、おそらく、自分たちの信仰の邪魔になる者を排除しようとしたのだと思う。それ以外、私に呪詛をかける理由が思い当たらない。
私は基本的にニュートラルな立ち位置で捉えながら、宗教には接する事にしている。小さい頃から見えない世界に当たり前のように親しんできたので、信仰というものは常に身近にあった。数々の宗教団体にご縁があったが、特定の信仰にはまる事はなく、それ以上に好奇心をもって垣間見てきたように思う。だからだと思うが、祖母の葬儀で執り行われた「宗教のしきたり」に大いに疑問をもち、考え調べる行動に出たといえる。
だが、他人の信仰の邪魔をしようなどとは微塵も考えた事はない。例え邪教と言われるものであったとしても信仰はその人のものと言う事は理解しているからだ。共感はしないが尊重はする。私は、真実が知りたかっただけ。ただ、それだけの話しなのであるが・・・私が話を伺いにいった事で信仰の邪魔をされると思い込んだのだろう。住職には私が要注意人物と見えたのかもしれない。
