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かのんのお部屋

日々いろいろ思ったことを☆

「和を以て尊しと為す」



これは、聖徳太子が制定した、十七条憲法の一条目に書かれている一節である。かなり深い意味をもつこの言葉、世間では色々な捉え方があるようだが私的には「相手がどのような者であれ、それを赦し、受け入れ、認めるという思想」 だと思っている。




和するとはどういうことか?



この数年の間、「和」についてずっと考えていた。
私が、SNSで日記を始めたのも実はそれがきっかけだった。様々な人に出逢い、教えをうけ、様々なところへ導かれていった。それは、不思議な縁であり、この世界においての日本の重要性を示すものだったように感じる。当時の日記を読み返して、私は一環して「和」の大切さを訴えていた事にきがつく。




その間にツインソウルとの出逢いがあり、本格的な自分自身の立て直しが始まる。




そのプロセス中、「国造り」というキーワードのもと突き動かされていた。

これも、その縁の不思議さを感じるものであり、本当に突き動かされている感覚だった。やはり、様々な人々に出逢い、様々なところへ導かれていくことがあり、それは現在も続いている。地域の仲間と、子育て・教育・地域の活性化・経済・国のありかたについて、真剣に話し合ったりもしたし、今後もその流れは続いていくであろうと思っている。




「国造り」というキーワードが私に訴え掛けるもの。

それは、日本人ひとりひとりの意識改革である。




国造りとは、国の問題であり、各自治体の問題であり、家族の問題であり、個人の問題でもある。


政治家が行っている政治も大事ではあるが、それより何より私達個人の問題が大きい。




私達の個人的な意識が変わらないと、国の基盤は整わないのだ。

基盤が整わない国造りは、「砂上の楼閣」そのもの。意味がない。





私がツインソウルと出逢ったのは、この意識改革を行うためであったように思う。頭でわかっていた「和」することの本当の意味を体得する経験は、ツインソウルの存在なくしては考えられなかった。




あるブログにこう書いてあった。


聖徳太子の言葉『和をもって尊しとなす』をご存知でしょうか。ここに一つの解があると思います。誤解されている方も多いですが、この『和』とは『波風を立てずに妥協し調和すること』ではありません。それは聖徳太子の真意とは全く逆のものです。

人は他人と意見がくい違うと、自分が正しくて相手が間違っていると思いがちです。聖徳太子はその思い込みを排することが重要と考えていたのです。


『完全無欠な人間などいない。人が公共の利益を実現するためには、各人のこだわりを捨て公正な議論を欠かさない。そのためには各自が私心を去らねばならない。』


これが「和を以て尊しとなす」の真意です。現代を生きる私達も謙虚に耳を傾けるべき貴重な教訓です。

不平不満があれば、正直に表現してぶつけ合うことです。ただし、その意見が私心によるものではないという条件付きです。私心による意見に拘泥した議論の落ち着くところは決まっています。パワーバランスの関係で議論を開始する前から結論が出ている出来レースになります。私心を捨て、共通の目的のためにお互い歩み寄り理解していくことが「和」の求めるところです。

安心な社会を築くためには、私心によらない共通認識の枠を増やしていくことだと思います。それぞれ自分の姿を今一度ふりかえり、改めるところは改め、伸ばすところは伸ばす。納得がいかないものがあれば、妥協ではなく進むべき道を確認して協議する。同じ社会に住むもの同士が、すばらしい「ハーモニー」を奏でるためにできることは1500年前の聖徳太子が教えてくれています。





私は、趣味の音楽を通じて、様々な団体に接する機会を今まで得ていた。



団体の中には色々な人がいる。十人十色とはまさしくこの事だと思う。皆それぞれに長所も短所もあわせもち、「音楽」という共通の目的意識をもっているのだが、皆の意識段階がまたそれぞれだったりする。




それぞれの環境や立場、考え方があり、音楽レベルの差などがある中で音楽を作り上げるのは簡単な事ではないと思い知った。




私はよく人間関係を楽団にたとえて考える。




楽団でひとつの音楽を演奏するのには、たくさんの楽器が必要だ。それぞれの楽器に割り当てられた譜面があり、それを各々が的確にこなし、指揮者(指導者)の指示にしたがい演奏することがある意味で最低条件かと思う。




だが、これをこなす前に、楽器を演奏する本人が練習を通して腕を磨き、楽器のメンテナンスから、音の調整など個人的に出来る様々な努力が必要とされる。それができて初めて、演奏をする条件が整うのだ。




だが、すべての人がそれを同じペースで出来るわけではない。



仕上がり具合はその時それぞれ。上手く出来る人もいれば、出来ない人もいる。なかには、体調不良になったり、楽器そのものが不調になったり、それぞれに問題を抱えることもある。




問題を抱えた人を、上手に演奏できない事を理由に切り捨てる事もできる。

シビアなプロの世界ではそういう事もあるかもしれない。




切り捨てられないように、必死の努力をすることが腕を磨く起爆剤になるならばそれもありだし、切り捨てられた事によって、さらなる努力をするという方向にいくこともあるだろう。




だが、こういうシビアな世界はまた競争意識もうむ。

競争社会は、「和」からかけ離れた方向にむかわせると私は思う。




淘汰される可能性の高い競争社会では、いかに自分が生き残るかが先決であり、そこには互いの足をひっぱりあう気持ちや駆け引き等が渦巻いている。お人好しでは渡っていけない。正直者が馬鹿をみる世界だ。




正直者が馬鹿をみる世界では、腹を割って本音で語り合えない。

お互いの腹をさぐりあい、駆け引きをしている人々の中で、正直に物を言うことがどれほど難しいことか。己の立場が危うくなるのは必死なのである


ある人が「歴史は繰り返す」と言っていた。

素晴らしい思想をもった高潔な人物ほど、疎まれて左遷の憂き目にあうのが今までの歴史だった。しっかりとした意見を言う人は、思い通りにならない目の上のたんこぶになりやすいということだ。




本音で語り合うことは、お互いの気持ちをぶつけ合うことでもある。

この意見のぶつけあいから、どうするのか?を皆で決めていくのが「和」の世界なのだと思う。私利私欲のため、本音を語り合う事を恐れる人が目の上のたんこぶを排除する方向にでる。





正直者が馬鹿をみない世の中こそ、和の世界なのではないか?


私はこれを強く思うのだ。





和するためには何が必要か?

それは、立場の弱いものでも受け入れる事ができる心の広さがひとりひとりに要求される。




先の、楽団の例えで言えば、問題をかかえている人を楽団員ひとりひとりが受け入れることができるかということだ。




問題をかかえた人を受け入れるのは簡単な事ではないだろう。

自分ができるが故に、出来ない相手を疎ましく思ってしまう気持ちが働くからだ。

そんな人はいらない、とばかり切り捨てたくなるのだ。綺麗な音楽をかなでるのに不協和音は正直つらいものがある。




だがなのだ。



不協和音のもとになるのは、問題をかかえた人だけとは限らない。

今、問題をかかえていなくとも、自分だっていつ問題をかかえることになるとも限らない。




そうなった時、切り捨てられたらどう思うだろう?


そこを考える必要があるのだ。



お互い様なのだ。そういう精神でいないと、和することはできないのだと思う。





出来ない相手を受け入れるには、相手の立場に立って、相手を理解し、相手を思いやる気持ちをもつこと。それには、「許し」の心が必要になってくる。




それが、ひとりひとりに出来るようになって、はじめて「和」することが出来るのだと思う。そういう団体は、出来ないでいる相手をフォローすることがとっさにできる。たとえ不協和音になったとしても、そんな事もあるよねと、笑って話せる雰囲気がそこにある。たとえ失敗しても問題を抱えても、受け止めてくれる団体は居心地が良い雰囲気に包まれている。




そういう居心地の良さがあって初めて、もっと頑張ろうという気持ちになってくるのではないだろうか。




一緒に頑張ろう、一緒に上手になって行こう、一緒にともに歩んでいこうと。



一緒にともにという姿勢は、ひとりひとりに謙虚さがなくては出来ないこと。




日本の事を「和」とも言う。

日本人ひとりひとり、この和する精神が問われている気がする。



日本は和する人がたくさん集まる、大いなる和の国に立ち返る必要があるのかもしれない。それが、大和という国なのではないだろうか?



そういう国造りを一国民として、目指していきたいと切に思う。