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かのんのお部屋

日々いろいろ思ったことを☆

自分と向きあうようになってからというもの、客観的に自分の行動や思考を観察するようになった。そうやって冷静になり視点を変えて己を見てみると、感情的になって渦中にいるときは分からなかったことがわかってくる。


まずは、私の苦い経験をお聞きいただきたい。



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あるコンサートの本番一週間前、バンドの中で問題が発生する。


練習していた曲のソロ部分を吹ける人の出演が無理ということがわかったのだ。


ソロ部分は違う楽器で2回繰り返されるために、ソロは1回のみでそこだけはカットにしてもいいか・・・と話し合っていたのだが、曲の流れ上やはりあったほうが良いということになる。


誰かいないか?となったが、同じ楽器を吹く人で出来ると言う人がいない。困っていたバンドの雰囲気をみて、私が代役をすることを申しでる。楽器が違うので、譜面の書き換えが必要になるし、一週間で暗譜をすることは承知した上でのことだった。


だが、私が負うべき役目ではないため、必要以上に負荷がかかった状態になり、結局、その責任が重くのしかかったソロは緊張しすぎて上手くいかなかった。


当然だが、上手くいかなかったことに落ち込み、悲しくなる。本当は、ここでバンドの誰かに慰めて欲しかった。「ありがとう。無理をさせてごめんね。よく頑張ったね。」それで私は満足だった。


でも、簡単にできることと思われたのか、やって当然と思われたのか、私がソロを代役したことに関して、誰も何も言ってくれなかった。コンサートそのものは成功だったため、皆はそれで盛り上がっていた。挙げ句の果てには、もうひとりのソロをとった人の「楽しかった!」という意気揚々とした姿をみせつけられることになる。


「あなたは、自分の持ち場をずっと前から練習していただけだからね!そりゃぁ出来て当然でしょうよ!楽しいでしょうよ!私なんて、自分の持ち場以外のところも、たったの一週間でこなさなければならなかったんだから!この大変さわかる!?」


こんな風に、その人にぶつけたい気持ちだった。私の気持ちなんてだれも理解してくれないと思った。


また、別ところでのはなし。


やはり、ソロをまかされた。それはそれで嬉しかったし、頑張ろうと思ったのだが、コンサートマスターが用意した譜面を見て驚く。自分が無理なく出来る範囲を超えていたからだ。音域といい、演奏テクニックといい、プロ並みの演奏を要求されていた。


見ただけで「無理」と思ったし、正直に「無理です」と言ったがコンサートマスターは私に食い下がる。何とかやってみてよと。


もちろん、期待されてたのでやれるだけやってみたが、やはり上手くいかない。そんな私を見て、「出来る?」とコンサートマスターは言う。正直「出来ない」と言いたかった。しかし、皆の手前「出来ない」と言える雰囲気ではなかった。「出来ないのは、あなたの練習が足りないからでしょ?もっと頑張りなさいよ!」とでも言わんばかりの雰囲気がそこにあったのだ。 


もちろん、私だって出来るものなら演奏したい。だが、そういう過度な期待が私をさらに追い詰めた。


ここでも、やはり上手くいかなかった。悲しくて、やはり叫びたい気持ちだった。

「こんなに頑張ってるのに、さらに頑張れというの?」と。




このコンサートマスターは、自分が求める音楽の理想が高い人である。その理想の高さからくる企画力は凄いと思うし、そうなれたら良いなぁと憧れる世界を教えてくれるので、この方と一緒に音楽をすることは確かに刺激になる。


この方は、ある難病を患っており身体の自由がききづらい状態が続いている。それでも、企画・構想・譜面の用意と色々と尽力されている努力は認めるし感謝できる。が、出来ないのに出来ると大きくでてしまうところがあり、そこで周りに毎回迷惑をかけてしまう癖があった。


先日もこんな事があった。



メンバーの一人の出欠がはっきりせずにいたため、保留になっていた。あとで、出席できるとわかり、その連絡をリーダーがコンサートマスターに伝えたらしい。


練習日にそのメンバーがやってきた時、そのメンバーの譜面は用意されていなかった。「欠席だと聞いたけど?」というコンサートマスターに対し、「確かに、伝えました」というリーダー。二人の意見が噛み合わず、その場の雰囲気は気まずいものになる。


リーダーはこの事以外でも、コンサートマスターに不満があった。用意できると言った譜面を用意していなかったからである。しかも、忙しいから用意できるかどうかわからないと平然と言われる。そもそも、自分が「出来る」と公言したから信頼したし、その曲の歌の練習までリーダーはしていた。だから、その信頼を裏切られた気持ちに納得がいかなかったのだ。


だが、このコンサートマスターは、いつもこんな事を繰り返す人でもある。譜面が本番当日に渡されることもあるし、譜面が出来ていても、コードがおかしかったり、不協和音だったり、調が違ったり、いつも何かしからの問題が発生する。完璧だった試しはほとんどない。だから、またか・・・という感じだった。


リーダーは思いどおりにならなかった不満をぐっとこらえて抑えていた。目上の立場のコンサートマスターに対して、言いたいことを我慢していた。だが、伝えたことを聞いていないと言われ、ついに爆発。その怒りは、周りを凍りつかせた。



しかし、練習はその日をいれて正味2回しかない。

少しでも練習をしなければならないのに、凍りついている場合ではなかった。みんなが色々な案をだすが、リーダーの怒りはおさまらない。コンサートマスターが素直に過ちを認めて代替案を出すなりの対処をすれば、もうすこし事態は変わっていただろうが、そもそも自分は悪くないと思っていたので、過ちを認めるどころか却って頑なになる。一向に話は進まず、時間ばかりがすぎるだけだった。あまりに遅々として進まないその場の雰囲気に耐えかね、私が申し出る。「私の譜面を書き換えます」と。


正直、そんな時間はないも同然なくらいに私も忙しい身だった。私にとって譜面を書き換えることは、簡単なことではない。かなり面倒な作業なので、本当ならやりたくはなかった。「また、面倒なことを抱え込んでしまった・・・」と思ったが、致し方ない。やると言った以上は、やるのが筋。だから、頑張った。


寝食を犠牲にして、仕上げた譜面。それに対して、「大変だったでしょう?ありがとう」という言葉があれば、私も満足だったのだが、これまた、やって当然と皆に軽くスルーされた。「こんなに大変な思いをしたのに、誰もなにもわかってない!」そんな不満が残ったのだ。


これらのエピソードを分析してみて、いくつか「気づき」があった。



ひとつ目の気づきは、つい頑張り過ぎてしまうということだ。

疲れていても頑張ってしまって、疲弊してしまう。いつも「よくそんなに頑張るね!」と言われるが、頑張ることが当たり前になりすぎていて、手が抜けない。私がリラックスできないでいる原因は、ここにもあるのかもしれない。



私は、周りから期待されたり頼りにされることが多い。どうも、見た目からそう思われやすいようだ。それはそれで嬉しいし誇りに思うのだが、過度な期待も受けやすい。その期待に応えられないと「怠けている」と思われる。どんなに一生懸命やっていても、この期待がついてまわる以上、それ以上に頑張らないと評価してもらえない現実がそこにある。



だがなのだ。私が頑張ることで、自然と周りは頑張らなくなる。そうすると、どうなるか。いつまでもいつまでも、期待されることになるのである。結局、自分で自分の首をしめていることに気がついた。


なので、最近の私は「頑張りすぎない」ことにもシフトするように心がけている。自分で「怠ける」ことを許すようにした。肩の荷を少しずつおろしているところでもあるのだ。


二つ目の気づきは、自分以外の人に対して「評価」を期待する気持ちが強いということであった。


期待する気持ちが強いと思ったとおりにはならない・・・のは、前回の記事に書いたとおりだ。わかっていながら、やってしまう「見返り」。やったことに対して見返りを求めた結果がこれだった。


「こんなに頑張ったの!すごいでしょ。認めてよ!!」



こんな気持ちが私の心のどこかにあったのだ。だから、思ったとおりの評価がもらえず、不満がのこる。評価されることを期待しているかぎり、この気持ちは必ずくすぶることだろう。それが、不平不満につながっていくのは間違いない。ならば、頑張ったことを人に評価してもらうことを期待しなければいい。求めずとも、自分で自分を評価していればそれでいいのではないか?と思った。それで充分という心持ちになれば、自ずと期待することもなくなるだろう。


これが、見返りを求めない心持ちなのかもしれない。




三つ目の気づきは、「感謝の気持ち」を言動で表していないと、こんな感じで人は不満をためていくものだということである。


感謝の気持ちは、思うだけでは相手には伝わりにくい。

だから、それを相手にわかるように、言葉や態度であらわすことが大事なのではないかと思ったのだ。何かしてもらったらお返しをする・・・というのは、そう言った意味での感謝の気持ちのあらわしかたなのであろう。


「タダより高いものはない」という諺があるが、無償でしてもらった事にどれだけ感謝の気持ちをあわすことができるのか・・・そこにその人の人間性が現れると思う。基本的に期待をしてしまうのが人間の性である以上、まったく感謝の気持ちがなかった場合、相手を大いに落胆させると思われる。場合によっては、これだけしてあげたのだから・・・と何か別のものを要求される可能性もある。


そんな訓戒もこめて、現在の私は「感謝」を言動であらわすようにしている。全てにおいて出来ているわけではないが、なるべく気がついた時に伝えるようにしている。


不思議なことにに「感謝」を言動であらわすと、相手の方から喜びのエネルギーが感じられる。それが、また私のエネルギーになる。そうすると、また「感謝」したくなる。そこに、いい循環がうまれるのだ。


与えることなくして、求めていただけの自分を多いに反省している。


自分がして欲しいことがあるのならば、まずは自分がそれをしてみるといいのかもしれない。与えることが自然に出来るようになったとき、本当に欲しいものが与えられるのではないか・・・そんなことを思うのだ。


どのエピソードも、渦中にいるときは感情的になり自分が見えていなかった。だから、自分のことを棚上げして、周りに恨みつらみを感じていた。だが、冷静になって自分をみつめてみると、どこまでも自分自身の問題と気がつかされる。どれも、私に気づきを与えるために起きた出来事だったのではないかと思う。



自分に起きる出来事は、全て自分自身に原因がある。


そう考えると、周りに恨みつらみを抱き続けることは、なんの解決にもならないし、余計な労力を使うだけであろう。解決しない問題は持ち越され、解決するまで違う形で自分にのしかかってくる。だからこそ、勇気をもって問題に向きあうことが大事なのだろうと思う。


感情を味わいつくしたのちに、問題に向きあう勇気をこれからももっていこうと思う。今回も、たくさんの経験から、気づきを得られたことに感謝をする。