ヤマアラシのジレンマ | かのんのお部屋

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人間関係の距離感を示す、心理学用語に「ヤマアラシのジレンマ」というものがる。

「ヤマアラシのジレンマ」とは、ドイツの哲学者、アルトゥル・ショーペンハウアー(1788~1860)が、『余禄と補遺 第2巻』に載せた寓話に由来する。

 ヤマアラシの群れが寒さに震えていた。
 彼らは互いを温め合おうと思い、互いに身を近づける。
 けれど、彼らの体には無数の棘がある。
 近づけば近づくほど、互いを傷つけてしまうことになる。
 それでも離れてしまえば寒くてたまらない。
 そのままでいれば、やがて凍え死んでしまう。
 そこで彼らは試行錯誤を繰り返す。
 近づいたり離れたり、を繰り返す。
 そして彼らは、ついに発見する。
 互いを傷つけずに温め合うことのできる距離を――

インターネット検索サイトより引用

この寓話をもとに、オーストリアの精神分析学者、ジークムント・フロイト(1856~1939)によって、「ヤマアラシのジレンマ」という心理学用語が考えられた。

ヤマアラシの刺は、人間のエゴイズムをあらわす。いわゆる自我である。

親密な人間関係を築こうとすると、お互いがもっている自我により、相手を傷つけるというところから、「程よい距離感」をとろうとする心理が「ヤマアラシのジレンマ」にあらわれているというのだ。

「人間関係は胎六分」

コミュニケーションのコツとして、私が教わったこの言葉も同じことを意味すると思う。この距離感は、「自分」という個を保ちながら、他人とお付き合いをするという意味で、非常に理想的な状態である。しかし、理想的ではあるが、簡単には保てない距離感でもあり、程よい距離感を掴むまで「ヤマアラシのジレンマ」は続くのであろう。

私は、この胎六分の感覚を、登山で掴んだ。

登山は、基本的に自己責任の世界である。自分で自分の行動に責任を取らなければならない。山に入るとは、それくらい厳しい環境の中に入る、ということなのである。この自己責任がとれない人ほど、山での遭難に遭いやすい。ようするに、他人に迷惑をかけるのである。

私は、自己責任が取れない状態で入山した。そこでまっていたものは、「ハーネス着用」という現実だった。ベテラン登山家からみたら、非常に危うい登山をしていたのである。山岳救助のプロによるハーネスを受けながら、自己責任の重要性を感じていた。

遭難したわけではなかったのであるが、人の手を借りることになってしまった現実。自己責任が果たせてないばかりか、人様に迷惑をかけている・・・という気持ちが募り、正直、居たたまれなかった。

後に、この方にお礼をいう機会があったのだが、「気にしなくても良いですよ。私も勉強になりましたから」という一言をいただいた。また、ご一緒した別の方からは「迷惑をかけるのも勉強のうちですよ」と言われることになる。

自己の失敗によって、自責の念にかられていた私には、とても有り難い言葉であった。
この言葉によって、失敗をしてもいいんだ・・・と自分を許すことができたからである。「こんな私でも受け入れてもらえた」と思うことができた。

しかし、なのである。
受け入れてもらえたからと言って、このままで良いはずはない。自己責任がとれないのは、代え難い事実。自己責任がとれるように「努力」をしていかなければならない、そう感じた。これを放置して、相手まかせにすることは違うと感じたのである。それは、「甘え」であり、どこまでも他人に迷惑をかけるもの。いわゆる「依存」である。

自己責任がとれたうえで、必要に応じて「甘える」「頼る」。そうしないと、甘えすぎたり、頼りすぎたりしてしまう。胎六分の関係性とは、こいったものなのだろう・・・身を持って感覚でわかった瞬間であった。そういう自己と自己のストレスのない関係こそが、理想的な人間関係だと思ったのである。ヤマアラシがお互いに身を寄せ合う感覚はこれなのだろう。

しかし、ここで疑問が生じた。

ツインソウルはどうなんだろう?と。
ツインソウルはそれでいいのか?と。

お互いに自分を「明け渡す」こと。それが確実に出来るのがツインソウルという関係性だと私は思っている。それが、統合という最終段階のツインソウルの姿だろう。その際、自我というものは邪魔になる。自我をもったままでは、自分を明け渡すことが出来ないのだ。

自我は捨て去り、ありのままの自分を「明け渡す」関係性は、ヤマアラシのままでは出来ない。
ヤマアラシのトゲが自我をあらわすということは、このトゲを全て抜いてしまう必要があるからだ。

トゲが身を守る鎧であるヤマアラシにしてみれば、鎧のない丸裸の状態は想像もつかないことであろう。身を守る術がないということは、恐怖以外のなにものでもないのだから。

自我を捨て去るということは、死を意味すると聞いた。
肉体の死ではない、社会性の死であると。

トゲという、社会性を身にまとい人間は生きているのだ。
本来の自分自身を見せることができないまま、生きているということになる。
だから、ヤマアラシのジレンマが起きるのであろう。

自我を手放せと言ったところで、それが簡単に出来ないのが人間というヤマアラシ。
本来の自分自身をさらけ出す恐怖から、トゲを身につけたままで生きているのだ。

しかし、そんな大事なトゲすらも、手放そうと思える相手が「ツインソウル」なのだと思う。相手と向き合うことで、自我が崩壊していくのには、それは大変な葛藤が伴う。その葛藤から逃げずに乗り越えて、ひとつひとつトゲを必要としなくなって行った先にあるもの、それが「明け渡し」というものなのだと私は思う。

ヤマアラシが身をよせあって温め合うことは、お互いがトゲを抜くことで可能なのではないか。無防備に、相手を信頼して甘えることができ、そして相手も同じように信頼して甘えてくる。与え与えられ、受けいれ、受け入れられ・・・なんと幸せな関係性だろう。

この状態を人は、「オーガズム」「サーマディ」「悟り」と呼ぶのだ、と私は思う。