「あなたを大好きだと言ってくれる人と結婚するのが幸せなんだよ」
これは若い頃に、恋愛相談にのってくれていた先輩の言葉だ。
当時の私は、自分の事を好いてくれる人には目もくれず、自分が好きな人ばかりを追い求めていた。
「私が」好きでないと、相手を愛せない。
そもそも、興味を示すこともない。
好いてくれる人と好きな人は違ったため、思う人には思われず、思わぬ人に思われて・・・を地でいくことになる。自分が欲する相手とは、なかなか縁ができなかった。
だいぶたってから、私を好きでいてくれる人と付き合った。
その人は、私が欲しいものを何でもくれた。求めれば、求めただけ私の事をみてくれるし、向き合ってくれる。嬉しかったし、私はその人にとことん甘え続けた。
でも、なのだ。
付き合いが続くうちに、わかった事があった。
それは、私が思うようにならないと怒りをしめし、縛る人だということだった。優しさの裏にひそむ激しさに怯えていた。
窮屈だった。
まるで、籠の鳥。
大事にされても、自分の自由がない。
それは、いつしか私に苦痛を与えるようになる。
私には私の意志がある。
「もっと私を信頼して自由にして!」
私は、愛されるだけでは嫌だったのだ。
自分も愛したかったのだ。
だが、自分が本気で愛する相手はこの人ではない・・・と無意識にわかっていたのだろう。だから、愛を与え続けてくれるこの相手と別れを選択できたのだろうと思う。与えてくれる愛に依存もできたが、私の心がそれを選択しなかった。それは、「愛」という名のもとの支配に隷属することになると心の奥底でわかっていたのだろうと思う。それが苦しみをもたらすということも。
多分、籠の鳥の時には愛が欲しくて欲しくてしかたがなかったのだろう。無条件に愛を与えて欲しかったのだが、結局は条件付きの愛しか与えてもらえなかった。愛するかわりに見返りを求められていたのだ。求めた見返りを与えないと、愛がもらえないない。だから、愛する。でもそれは、心からのものではない。愛を与えてもらうために、愛を与えるという延々続くループの中で、虚しさを感じていた。
自分を好きでいてくれる人と結婚するのが一番幸せ・・・
この経験から、本当にそうだろうか?とこの言葉に疑問をもつようになった。まったく間違っているとは思わない。でも、なのだ。
これでは、相手さえ自分を好きでいてくれれば良いと他動的な感覚を私はもつのだ。
愛は、そんな人任せなものではないと思う。
だから、自らの意志で相手に愛を与えるという気持ちも大事なのではないだろうか?
その気持ちがあってこそ、本当に本当に幸せになれるのではないかと思う。
でも、自ら愛を与える前に、愛を求める気持ちを満たしておかなければならないとも思う。そうでないと、与えることが苦痛になってくるから。
片想いばかりしていた当時の私は、カラカラな自分の愛の電池に愛を与えてくれる相手を探していたのだろう。
自分が好きで好きでどうしても・・・のようにみえて、本当に「好き」ではなかったのだ。
恋に恋することしかできていなかった・・・という訳だ。
ツインソウルとの出逢いによって、愛し愛されることがどういうことがわかった。だからこそ思う。
「あなたを大好きだと言ってくれる人と結婚するのが幸せだよ」
この言葉では片手落ちだと。
「あなたを大好きだと言ってくれて、尚且つあなたも大好きだと思う人と結ばれるのが幸せ」
愛されるだけが幸せではない。
愛する事も幸せでなければ真の幸せとはいえないと私は思う。