「こうして彼らは剣を打ち直して鋤とし,槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず,もはや戦うすべを学ばない。」

 

と 旧約聖書のイザヤ書にある。

 

「平和」を牧師や神父が語る際に,よく引用している箇所だ。

 

もちろん!?究極の偽善とアホくささの極みである「平和憲法」との絡みで思い入れたっぷりに語られているのは言うまでもない。

 

聖書は,文学でもあり歴史書でもあり哲学書でもあるから,聖典として以外にも様々な読み方ができるのは論を待たないが,

 

わが国のような特異な読み方は,世界広しといえどもちょっと類を見ないのではないか。

 

キリスト教でなくとも,およそ(筋金入りの)宗教で平和を祈らないものはないだろう。

 

しかし,究極の理想としての文言と,地球上の苛烈で冷徹な弱肉強食の現実を,無責任にもゴッチャにして平然と説いては聖職者面をするのは日本だけではなかろうか。

 

わが国のキリスト教会の大半は建国記念の祝日にミサなどをあげようとはしない。どころか建国を祝うことそのものに反対である。

 

外国旅行中に滞在するホテルでその国の独立記念日や建国記念日に遭遇した際,ホテルの従業員から「よろしかったら,今日のお祝いのミサが近くの教会でありますからあなたもいかがですか?」と,

 

勧められた経験を持つ日本人は結構な数でいるし,何よりも現地駐在の歴代特派員氏や在外公館の職員氏は,そのあたりの事情はじゅうぶん体験している。

 

もちろん,数ある「なんとか街歩き」や「こんなところに日本人が!」的な番組に,どの国にもいる「若き兵士達」の姿が絶対と言っていいほど映らないのと同様に,

 

こういった,ごく自然に祖国の独立や建国を祝っている「キリスト教徒達」の姿に接した日本人達の感想が,わが国のお茶の間に紹介されることはない。

 

そうですよね?日本反日協会のNHKさま!

 

 

処女懐胎や贖罪思想,一神教の世界観などが,多神教で融通無碍な日本の素晴らしい宗教風土に馴染まない面も多々あるが,

 

不可思議な「9条信仰」や,どうあっても許し難い反靖国宣言にも見られる如く,

 

原爆だけでも30万人もの非戦闘員を鬼畜のように大虐殺した「キリスト教国」アメリカが投げ与えた憲法を押し戴き,敵が断罪した「犯罪者であった大日本帝国」を検察官気取りで敵視し,

 

大東亜戦争において無辜の民をしきりにむごたらしく殺傷した者どもが奉じるキリスト教と恥知らずな蛮行との,ご都合主義な乖離を問いただすこともなく,

 

わが国をよってたかって打ち負かした「連合国」の側に立っては祖国を糾弾し続ける醜い反日ぶりへの違和感と忌避感が,布教から何百年経っても信者が人口の1%にも満たない原因ではないか。

 

私は,ふたつのJ,つまりはキリストと日本をこよなく愛し,武士道精神をもって信仰をする明治型,無教会型のキリスト教徒ではあるが,

 

偏狭でない愛国心を持ち,やむをえない場合のみは戦争をすると決意し準備をしている他のキリスト教国の姿勢を支持する。

 

ヨハンネスの聖句に「ひとがその友のために自分の命を捨てること これよりも大きな愛はない」がある。

 

脳天気で自己チューな「平和な時の平和論」を振り回す聖職者諸氏が,祖国愛や同胞への愛,同盟国への責務といった大義のために,ひとつしかない命を捧げて天に召された他国の人々の御遺族を訪ね,

 

「あなた方のキリスト教解釈は間違っている。お亡くなりになったご家族は誤った人生を送られたのです」とハッキリ伝えて先方が納得して恥じ入るかを検証してみるがいい。

 

第二次大戦に限っても,従軍牧師や神父が最前線で,祖国のために必死に戦う兵士達のためにどれほど献身的で崇高なふるまいを高い信仰心と強い義務感をもって果たしたかを少しでも学んだのか?

 

大学の神学部で何を習うのか知らないが,誇りある独自の平和主義なんて寝言を言う前に,その平和主義を語る「自由」がアメリカ兵や自衛隊員の捧げる多くの尊い命で保証されていることに思いを致すがいい。

 

そのくらいのことも解らないでよくも説教壇から能書きを垂れていられるものだと,他ならぬキリスト教徒である私はいつも呆れ果てて軽蔑している。

 

 

夜間戦闘訓練に備え,ドーランを塗って,きなちゃんが くろちゃんに変身する。

 

それにしても,アメリカ式の鉄帽をかぶるのは屈辱だった。