昭和の終り,国旗国歌法が成立する直前の,各公立学校の職員会議で「紛争」が絶えなかった頃の話である。
よく耳にする「教育委員会」というものがある。都道府県と市町村に置かれている。
これは,教育委員そのものはたまに会合を持つくらいの名誉職だから,予算執行や各種調査などの,いわゆる教育行政実務に当たるのは「事務局」である。
事務局には,教員である者も一部には混じるが,大方は一般事務職で,特に教育に関する知見を有する人達ではない。
だから,市町村で学校教育課長だの学校教育係長だのという机に座っている者達は,総務課だの管財課だの水道課だのという各課を定期的に回っている,かの有名な?自治労という職員組織の構成員であることがほとんどだ。
今日から思えば,当たり前以前のことである学校への国旗常掲が,当時は日教組の妨害にあって各校大騒ぎだったのだが,あの風景は,自治労と日教組という相互に協力関係にある反日組織が生み出したものだったのだろう。
ある日の午後,学校予算全般の担当だった私は町教委事務局を訪ねた。古びて千切れてしまった国旗の新規購入を依頼するためである。
ウンザリするほど続いた朝礼や職員会議での怒鳴りあいの末に,やっと屋上への国旗常掲を実現させた頃だった。
依頼を聞いた学校教育係長殿は開口一番こう言った。「予算も厳しいのに,あんなものはいっそのことベニヤで看板でも作ればいい。それでじゅうぶんではないか。そんなに揚げときたいんだったらね」
本来ならば,多くの私立学校がそうしているように,国旗の揚げ降ろしは生徒会なり児童会がやるべきことだ。
わが国のように,学校の管理職や用務員が「しかたなく」やっているような国は,地球広しといえども稀有な存在である。
毎朝毎夕の国旗の揚げ降ろしを児童や生徒にさせることで,自然と養われてくる自分の国への尊崇があるだろう。
それが身に着けば,外国人が自らの祖国を大切に思い,たとえ牽強付会な論理を振り回してでも,自国の名誉を守ろうと躍起になるのも理解できるだろう。
一足飛びにコスモポリタンになどなれはしない。ナショナルなものこそがインターナショナルなのだと学ばずに何の国際人なのだろう。
文科省の統計に表れる各都道府県ごとの国旗常掲率では鹿児島県は素晴らしい数字が出ている。
しかし,昔も今も,日教組育ちの官僚達の脳裏には,現場の実態など浮かびはしない。それが,自分達が所管(するらしい)子供達の心にどんな影響を与え続けているかも。
元締めの官庁が「一部がウルセイから揚げときゃいいだろう」だから,末端の小役人風情が「看板にすりゃあいい」になるのだ。つまりは,同じ穴の貉である。
ごく最近,県内の国旗掲揚台が,屋上から地上へと移設されていくのをよく目にするようになった。
現場の管理職たちに二,三インタビューを試みると,管理しやすいからという答が返ってきた。
文科省が作る文章には美辞麗句が並ぶ。まるで「健全な愛国心」を育てる環境がみごとに整っているかのように。
教壇を一時離れ,教育委員会事務局へ配置されたことを「箔が着いた」と自他共に思い,その後の人事上の取り扱いで,管理職へ早くに任用されたり,僻地への勤務を免れたりといった「特典」を得ることが常態化している人々にとって,国旗などはどうでもいいことなのである。
戦いに敗れて70年近くなるけれど,国旗は今も,誇りを剥ぎ取られた寂寥に懸命に耐え抜いているかのようだ。
よく耳にする「教育委員会」というものがある。都道府県と市町村に置かれている。
これは,教育委員そのものはたまに会合を持つくらいの名誉職だから,予算執行や各種調査などの,いわゆる教育行政実務に当たるのは「事務局」である。
事務局には,教員である者も一部には混じるが,大方は一般事務職で,特に教育に関する知見を有する人達ではない。
だから,市町村で学校教育課長だの学校教育係長だのという机に座っている者達は,総務課だの管財課だの水道課だのという各課を定期的に回っている,かの有名な?自治労という職員組織の構成員であることがほとんどだ。
今日から思えば,当たり前以前のことである学校への国旗常掲が,当時は日教組の妨害にあって各校大騒ぎだったのだが,あの風景は,自治労と日教組という相互に協力関係にある反日組織が生み出したものだったのだろう。
ある日の午後,学校予算全般の担当だった私は町教委事務局を訪ねた。古びて千切れてしまった国旗の新規購入を依頼するためである。
ウンザリするほど続いた朝礼や職員会議での怒鳴りあいの末に,やっと屋上への国旗常掲を実現させた頃だった。
依頼を聞いた学校教育係長殿は開口一番こう言った。「予算も厳しいのに,あんなものはいっそのことベニヤで看板でも作ればいい。それでじゅうぶんではないか。そんなに揚げときたいんだったらね」
本来ならば,多くの私立学校がそうしているように,国旗の揚げ降ろしは生徒会なり児童会がやるべきことだ。
わが国のように,学校の管理職や用務員が「しかたなく」やっているような国は,地球広しといえども稀有な存在である。
毎朝毎夕の国旗の揚げ降ろしを児童や生徒にさせることで,自然と養われてくる自分の国への尊崇があるだろう。
それが身に着けば,外国人が自らの祖国を大切に思い,たとえ牽強付会な論理を振り回してでも,自国の名誉を守ろうと躍起になるのも理解できるだろう。
一足飛びにコスモポリタンになどなれはしない。ナショナルなものこそがインターナショナルなのだと学ばずに何の国際人なのだろう。
文科省の統計に表れる各都道府県ごとの国旗常掲率では鹿児島県は素晴らしい数字が出ている。
しかし,昔も今も,日教組育ちの官僚達の脳裏には,現場の実態など浮かびはしない。それが,自分達が所管(するらしい)子供達の心にどんな影響を与え続けているかも。
元締めの官庁が「一部がウルセイから揚げときゃいいだろう」だから,末端の小役人風情が「看板にすりゃあいい」になるのだ。つまりは,同じ穴の貉である。
ごく最近,県内の国旗掲揚台が,屋上から地上へと移設されていくのをよく目にするようになった。
現場の管理職たちに二,三インタビューを試みると,管理しやすいからという答が返ってきた。
文科省が作る文章には美辞麗句が並ぶ。まるで「健全な愛国心」を育てる環境がみごとに整っているかのように。
教壇を一時離れ,教育委員会事務局へ配置されたことを「箔が着いた」と自他共に思い,その後の人事上の取り扱いで,管理職へ早くに任用されたり,僻地への勤務を免れたりといった「特典」を得ることが常態化している人々にとって,国旗などはどうでもいいことなのである。
戦いに敗れて70年近くなるけれど,国旗は今も,誇りを剥ぎ取られた寂寥に懸命に耐え抜いているかのようだ。