私の母は、台湾で生まれて育った。麻豆という所だったと聞いている。祖父が製糖工場勤務で、二人姉妹の長女だった母は、当時は日本だった南国で楽しく過ごしていたらしい。
サトウキビ畑で働くクーニャン達が濃く美しいメイクをしていたことや、マンゴーやドリアンなどのトロピカルフルーツの美味しさを、私は幼い頃から「耳にタコができるほど」といった表現が決してオーバーでないほど繰り返し聞かされて育ったが、少女時代を懐かしむ母の表情は、他のどんな時よりも柔和で美しく、優しい穏やかさに満ちていた。
晩年になっても、一番楽しかったのは台湾だったと事ある毎に呟いていたが、歳月を重ねるとひとは過去が美しく見えてくることを差し引いても、幸福な子供時代を過ごした素敵な土地だったのだろう。
母方の祖母もよく話に出てきた。大東亜戦争に残念ながら敗れた後、台湾から引き揚げた鹿児島の田舎で、専業主婦には慣れない農作業での無理がたたって祖母は若くして亡くなってしまったから私にとっては会ったことのないひとだったけれど。
戦争も末期になると、アメリカ軍の空襲が激しくなり、警報のサイレンが鳴り始めると、急いで防空壕へ駆け込む暮らしだったという。
ある時、爆撃機が去った後で飛来した小さな艦載機が、逃げまどうクーリーやクーニャン達に執拗な機銃掃射を浴びせて撃ち殺し始めたが、怖る怖る入口から空を見上げていた祖母は、超低空で飛びながら後部座席で金髪をなびかせ、白い歯をのぞかせて楽しそうに笑いながら機銃を撃ち続ける若いアメリカ兵の姿を見た。
やがて敵機が総て去ってから壕を出て工場へ行ってみると、火災でドロドロに溶けた砂糖が流れていく側溝に、多くのクーリーとクーニャン達の死体が折り重なっているむごたらしい姿が目に飛び込んできたという。
母から何度も何度も聞かされたこの情景と、鬼畜米英という言葉は、長じて自分自身が目にした原爆で殺された死者達の無惨な写真と動画、東京大空襲時のすさまじい焼死体の山と共に今も胸に焼き付いている。
軍需工場以外を無差別爆撃し、有色人種への人体実験として原爆まで投下し、しきりに非戦闘員を大虐殺したアメリカこそが「戦時国際法違反」を犯したのであり、人道に反した分際で日本を「裁く」などおこがましい!といった敵愾心は、祖母の体験が植え付けてくれた面が大きい。だから私は、戦争の勝者が敗者へ復讐した政治ショーにすぎない「東京裁判」などには全く価値を認めずに済んだ。
無念にも戦いに敗れ、日本本土へ引き揚げることになった母達に、台湾の人々はできる限りの気持ちを示してくれ、表札を現地人風に取り替えてくれたり、身の回り品や食べ物にまで何くれとなく気を遣ってくれた。これは祖父が、平素から分け隔て無く人々に接していたからこその心遣いだったのだろう。
広島県宇品港を目指す引き揚げ船が決まり、最小限の荷物を積み込んだ車が港へと動き出した時、住み慣れた家を振り返った母の瞳に消し忘れた部屋の灯りが悲しく映った。
母が何度も心残りのようにして聞かせてくれたこの小さな灯りは、いつのまにか私の胸に根付いて、まるで自分も台湾から引き揚げた疑似体験をした気持ちになっている。
台湾も日本も、無慈悲で貪欲な核大国である軍国主義国家の中国からの絶えざる脅威にさらされているが、近い将来に必ず、母が愛した台湾と祖国日本が手を取り合って平和を護っていける日が来ることを心から願わずにはいられない。
サトウキビ畑で働くクーニャン達が濃く美しいメイクをしていたことや、マンゴーやドリアンなどのトロピカルフルーツの美味しさを、私は幼い頃から「耳にタコができるほど」といった表現が決してオーバーでないほど繰り返し聞かされて育ったが、少女時代を懐かしむ母の表情は、他のどんな時よりも柔和で美しく、優しい穏やかさに満ちていた。
晩年になっても、一番楽しかったのは台湾だったと事ある毎に呟いていたが、歳月を重ねるとひとは過去が美しく見えてくることを差し引いても、幸福な子供時代を過ごした素敵な土地だったのだろう。
母方の祖母もよく話に出てきた。大東亜戦争に残念ながら敗れた後、台湾から引き揚げた鹿児島の田舎で、専業主婦には慣れない農作業での無理がたたって祖母は若くして亡くなってしまったから私にとっては会ったことのないひとだったけれど。
戦争も末期になると、アメリカ軍の空襲が激しくなり、警報のサイレンが鳴り始めると、急いで防空壕へ駆け込む暮らしだったという。
ある時、爆撃機が去った後で飛来した小さな艦載機が、逃げまどうクーリーやクーニャン達に執拗な機銃掃射を浴びせて撃ち殺し始めたが、怖る怖る入口から空を見上げていた祖母は、超低空で飛びながら後部座席で金髪をなびかせ、白い歯をのぞかせて楽しそうに笑いながら機銃を撃ち続ける若いアメリカ兵の姿を見た。
やがて敵機が総て去ってから壕を出て工場へ行ってみると、火災でドロドロに溶けた砂糖が流れていく側溝に、多くのクーリーとクーニャン達の死体が折り重なっているむごたらしい姿が目に飛び込んできたという。
母から何度も何度も聞かされたこの情景と、鬼畜米英という言葉は、長じて自分自身が目にした原爆で殺された死者達の無惨な写真と動画、東京大空襲時のすさまじい焼死体の山と共に今も胸に焼き付いている。
軍需工場以外を無差別爆撃し、有色人種への人体実験として原爆まで投下し、しきりに非戦闘員を大虐殺したアメリカこそが「戦時国際法違反」を犯したのであり、人道に反した分際で日本を「裁く」などおこがましい!といった敵愾心は、祖母の体験が植え付けてくれた面が大きい。だから私は、戦争の勝者が敗者へ復讐した政治ショーにすぎない「東京裁判」などには全く価値を認めずに済んだ。
無念にも戦いに敗れ、日本本土へ引き揚げることになった母達に、台湾の人々はできる限りの気持ちを示してくれ、表札を現地人風に取り替えてくれたり、身の回り品や食べ物にまで何くれとなく気を遣ってくれた。これは祖父が、平素から分け隔て無く人々に接していたからこその心遣いだったのだろう。
広島県宇品港を目指す引き揚げ船が決まり、最小限の荷物を積み込んだ車が港へと動き出した時、住み慣れた家を振り返った母の瞳に消し忘れた部屋の灯りが悲しく映った。
母が何度も心残りのようにして聞かせてくれたこの小さな灯りは、いつのまにか私の胸に根付いて、まるで自分も台湾から引き揚げた疑似体験をした気持ちになっている。
台湾も日本も、無慈悲で貪欲な核大国である軍国主義国家の中国からの絶えざる脅威にさらされているが、近い将来に必ず、母が愛した台湾と祖国日本が手を取り合って平和を護っていける日が来ることを心から願わずにはいられない。