ある夏の終わり
私は面縄という部落に車を走らせ,闘牛場の近くにつながれているデカい
闘牛を眺めていた。
闘牛場に客として入ったことはなかったが,誰もいない闘牛場の風景を
見てみたいとふいに思ったのだ。
閑散とした熱戦の場を見つめているうちに,パパ ヘミングウェィの残した
傑作短編「挫けぬ男」が浮かんできた。
作中,年老いて闘牛士としての力が落ちてしまった主人公は,周囲の引退
への勧めにも頑として応ぜず出場し大怪我をするが,それでもなお闘志を失う
ことなく,闘牛士の象徴である辮髪を切ることを拒否する。
なろうことなら,そんな生き方をできたなら と思いにふけっていると,視野に
入っていた柵につながれていた黒い巨体がするすると動いた。
ダラリと地に垂れた綱を見たとき,不覚にもエンジンを切っていたことに気づき
慌ててイグニションを回すと牛が突進を始めた。
あれに当たれば薄い鉄板の車など壊されてしまうと,必死でアクセルを踏み
込んだ。牛は巨体を揺すって意外なほどのスピードで迫ってくる。
ようやくバックミラーで小さくなった牛を確かめた時,背中はびっしょりと冷や汗
で濡れていた。
それは,緩い縄のつなぎ方がもたらした,スリリングなギャンブルアイランド
の忘れ難い一瞬だった。