暑さが幾分和らぐ島の夕刻に車を走らせると,ノロノロ運転が非常に多い日常


さらにひどくしたような低速走行に行き当たることがあった。



 何しろ知り合い同士がセンターライン近くに車を停めて話し込み,クラクション


を鳴らすとニッコリと邪気のない微笑を向けてはまた話し込むような土地柄だっ


たから



 低速走行には慣れていたのだが,それにしてもと身を乗り出し前方を見ると


1トンはある闘牛がゆっくりとお散歩中なのだった。



 巨体が邪魔になって車はなかなか進めないのだが,地元の人々は気に留め


るふうもなく,気長に待っているのだった。



 牛は暮らしの一部というか,一攫千金の夢をかなえてくれる特別な存在として


大切に育てられているように見えた。



 ある時,定年を間近に控えた地元出身の老教師が



 「牛はね,生まれつき闘うようにはできていないよ。仕込むから,教育するから


闘うようになる。人間と同じだよ。戦争中もそうだったわけだから」と,おそらくは


日教組の研修か何かで聞いてきたのだろう非戦論のようなニュアンスをこめて


言ったことがあった。



 私は,それは同じ次元で論じられる問題ではないだろうという気がしたが,自


で話しながら満足したように何度も頷いている60歳の御仁を前にしては何を


言っても同じだと思い黙っていた。



 それでは今日に至るもなお,日本以外の国々のほとんどが,祖国を護るため


に武器を取って戦うことは尊いことだと教え,かつて祖国のために戦死していっ


先人達を称えながら語り継いでいるのはなぜか?



 多くの税金を投入し,教育訓練による多くの殉職者も出しながらなお,軍隊を


維持しているのはどうしてなのか?



 「人がその友のために自分の命を捨てること これよりも大きな愛はない」とい


うヨハンネスの聖句は,未来永劫にその輝きを失はないのだがと



 人としてあるべき姿を忘れさせ,命以上の価値は無いかのような誤った考え


方を執拗に刷り込んできた「戦後民主主義」の恐るべき爪痕に思いを致しなが


ら。