鹿児島へ来てから初めての秋が来て、私の試用期間が完了する時期が


迫ってきた。


つまりは半年間を何事も無く過ぎたら、本採用にしてやろうというわけだった。



高台にある中学校のグランドを秋風が吹き渡ってくる昼下がりに、


私は、分会長の訪問を自室へ受けた。



入ってくるなり彼は、大きな張りのある瞳を私に向けて


職員会議で見せる猛々しい表情とはまるで違う柔和さを漂わせながら口を開いた。



「今までの感じからして、到底無理だとは思うけれど一応と思って」と


私に言いながら彼が浮かべた、困惑と諦めと哀しみが入り混じったような


表情を



それから長く私は覚えていた。



「できれば組合に加入してくれないかと誘いに来たのだけれど」と彼は続けた。



日教組の中でも、いわゆる共産党系の非主流派に属す体育教師だったが


机に足を投げ上げ、チンピラ紛いの言動を教頭校長に繰り返す輩とは違って



言っていることは容認できないものの、一定の論理を感じさせる言葉を吐く


人物ではあった。



「いや、東京裁判史観を絶対に認めないことや、戦争観、平和観、国家観に


おいて、私には重なるところは何も無いですから」と静かに私は答えた。



「やはりそうですか」



一言だけ言うと、彼はちょっと天井に視線を上げてから部屋を出て行った。



後に、定年後まもなく彼は死んだと聞いたが



この瞬間が



その後長く続いた、日教組との戦いの始まりだった。