昭和60年春


 

 陸上自衛隊を除隊して勤めていた博多の小さな広告代理店を辞して


実家のある久留米市から高速に乗り、採用が決まった鹿児島県へ向かった。



 国家公務員と地方公務員を受け、双方に合格して鹿児島県を選んだ。


 

 父祖の地であり、久留米で育ちながらも節目ごとに墓参へ訪れる場所でも


あったからだが



 第一線配属への希望かなわず思いがけず制服を脱ぐことになった身には


九州南端の僻遠の地へ赴く身が哀れな落魄の境遇に感じられた。



 久留米市を抜けようとする時にふと、北越戦争で戦死した敬愛する河合継之介


歌が浮かんだ。



 「八十里  腰抜け武士の  超す峠」



 車は、天降り(あもり)の地である血の故郷へと県境を抜けてひた走る                


それは


青雲の志が総て水泡に帰した後、長く長く続く屈辱と凋落の始まりだった。