『オレンジビーチ-スリーデイズメイビー』



 二人が逢うようになってしばらく経ってから、少佐は士官学校の後輩でハルピン憲兵隊に勤務する橋野大尉を郵政街の英国領事館近くの憲兵隊本部に訪ねた。


 事情を話すと大尉は彼女の夫の名前に微かな記憶があったらしく、その場で彼の指揮下の諜報網に二、三連絡を取ってくれた。


「その人は軍の任務に従事していたと思います」電話をかけ終えた後で大尉は言った。


 「わが方の諜報網への切り崩しも最近は戦局の推移と共に激しさを増しておりまして」そう大尉は続けた。


 眉目秀麗が絶対条件とも言われた近衛兵への声もずいぶんとかかったという、涼やかに引き締まった端正な表情がやや翳りを見せていた。


 少佐は橋野が内地に残している婚約者である多恵の美しい横顔をふと思い浮かべた。


 橋野に、紹介するからぜひ会ってほしいと新宿に呼び出され、中村屋で過ごした夏の昼下がりが、


 多恵の大きく切れ長な一重の印象的な瞳と、清潔感に溢れる美しい口元と共にありありとよみがえった。


 勤務先である日本郵船に始まった思想信仰団体である明朗会の会員に多恵はなったと聞いていた。


 現内閣への批判精神を失っていない思想監視対象団体に婚約者が在籍していることは、


 憲兵将校の道を誠実に歩んでいる橋野の心にいつも重くのしかかっているのではないかと、


 少佐は憲兵職種を現す軍服の黒い襟章を見つめながら思った。