周囲から人の気配が無くなったのを感じて我に返り、目を開けて見回すと一人の老婆が居眠りしている他は外来受付に誰もいなくなっていた。
やっとスピーカーから自分の名前を呼ばれて立ち上がると、私は奥の患者用ブースへと向かい腰を下ろした。
目の前に腰掛けた若い医師が胸に付けた名札の色は彼がルーキーであることを示していた。
柔らかそうな軽い巻き毛が僅かに茶色に見え、ジャニーズ系の甘くてかわいらしいベビーフェイスの額にかかっていた。
「入院の申し込みでしたね?」やや色の薄い青味を滲ませた茶色に見える瞳で私をまっすぐに見つめながら医師は言った。
私が頷くと、彼は目線を落として胸ポケットのペンシルを抜き取り、受付簿を広げると紹介状を片手に書き込み始めた。
なんとなく手元のペンシルに目をやると、微笑んでいるカラフルなデザインのミッキーマウスが見えて、何度鼓舞しても、ともすれば重く沈みがちになる気持ちを優しくほぐしてくれるような気がした。
20代半ばか・・この若者が年少から始めたであろう受験勉強に励んでいたに違いない頃、自分は陸上自衛隊の幹部候補生として九州各地の演習場で汗を流し、
あるいは江田島の旧海軍兵学校と交流し、大阪で見習士官時代を過ごし、沖縄の戦跡で戦史や現地戦術教育を受けていたのだった。
小高い丘から見はるかす草原を疾駆していく主力戦車の巻き上げる砂塵や、耳を聾する主砲の発射音、豆を炒るような機関銃の射撃と、まぶしい青空を切り裂いて飛び去る戦闘ヘリコプターの爆音が、
地を這うようにして土に汗を染み込ませていた若者の頬を伝う汗を乾かしてくれた祖国のいとおしい風と共に一瞬よみがえった思いがして、私はベビーフェイス君の手元を見つめながら思わず胸がいっぱいになった。
ひとを羨むな!そんな見苦しい心を持ってはいけない。たとえどういった境遇に陥ったとしても最後まで人間として慎まねばならないことがあるのだから。
深く学んだわけではないけれど、私は聖書を貫いている『この世は決して平等な場所ではない』といったリアルなトーンを痛いほど思い出していた。
与えられたものはそれぞれ違う・・課せられる使命もまたそうだろう。しかし試練に耐え抜く力は?明日を信じる気持ちの強さはどうだろう?
「以前から順番待ちの方もいますし、それぞれの治療計画との関係もありますから、時間がかかるとは思いますが、
しばらく御自宅で連絡をお待ちください」心ここにあらずの状態だった私は、ベビーフェイス君の事務的な言葉を他人事のように聞き終えると頷いて立ち上がった。

