すぐに駆けつけてくれたナースは、老婆の背中をさすりながら何度も何度も「大丈夫だからね 少し眠ろうよ」と優しく辛抱強く声をかけ続けた。
それでも、むずかったり、大きく喚いたりでなかなか老婆のご機嫌は収まらない。
こういった状況で無理に瞳を閉じたところで眠れるはずもなく、時計の針は午前4時をいつか回ってしまい、病室の窓へ早くも朝の光が忍び寄ってくる気配がした。
ナースは私の傍へも寄ってきて、ホントに困ったものだといった表情を浮かべながら「それで今夜のご気分はいかが?」と冗談めかして聞いたりした。
その表情から、老婆の容態が重篤なものではないことを読み取った私は「最悪」とだけ答えて少し微笑んだ。
この老婆はきっと寂しくてしかたなかったのだろう。ナースはナースで真夜中に懸命に自分の務めを果たしたのだろう。
そして私は、抗癌剤との初めての遭遇戦を終えて身も心もクタクタになった一夜を、大学時代に繰り返し読んだ、亡者達の間をすり抜けて進んでいったダンテの『神曲』を思い起こさせる陰鬱な雰囲気に包まれて眠れずに過ごしたというわけだった。
病室に明るさが増し、早起きの?患者達の間にボソボソとした会話が始まった頃、騒ぎ続けた老婆はさすがに疲れたのか大きな鼾をかいて眠りに落ちていった。
すっかり憔悴した私は、ベッドに縛りつけられたままの両足の指を交互に動かしてみたり、動かせる方の腕を使って髪を恐る恐る引っ張ったりしてみた。
ふと気づくと、枕の脇にいつのまにか嘔吐した際に使う塩ビニの洗面器が置いてあった。
副作用グッズというわけか・・・脱毛と嘔吐ははたして襲ってくるのだろうか?それとも、幾多のアガリクスによる闘病体験記にあったように、一方か双方の症状を無くし、あるいは軽減する効果が出るのだろうか?
生来の見栄坊の私にとっては、嘔吐はともかくとしても大問題は髪が抜けてしまうことだった。『病気からではなく、まだ若いのにハゲてしまった人達はやっぱり悲しいだろうなあ』と、
今さらのように心底からの同情が湧いたが、自分が脱毛に備えて短髪にもせず、カツラやスキー帽も結局は準備しようとしなかったことにふと思い当たって、
やはり心の奥底では、あの体験記の人々のような成果を絶対に得られるといったイメトレを必死でしていたことに気づき、そんな自らの姿をちょっとせつなく、また可笑しくも感じたのだった。

