今日も寒いのお外作業は中止です(;^ω^)。

 

午後からホームセンターへ行ったので、残りのリムの研磨用に使えそうな物を探しましたが、ホントにホームセンターの商品の価格が信じられない程に高くなっちゃっててほしい物が買えません(-_-;)。

 

で、何も出来ない日は例の続きです(^^ゞ。

 

古いアルバムからシリーズも7回目です。

 

今回は1973年6月の杖突峠から分杭峠です。

この時は一人では無くて、先日の新年会の時のメンバーの一人T君との二人でした。

 

前日、あの能登へも乗って行ったランドナーもどきが、そのT君の元へ嫁いで行って居たので、T君は仕事が終わってから船橋の自宅から都内の我が家迄自走してくることに。

私はそれで錦糸町駅前迄T君を迎えに行って、夜中の2時過ぎまで準備等々で大騒ぎ(;^ω^)。

 

それなのに新宿始発の6時には乗りたいので、4時には起ききて眠くて眠くて、T君は全然起きて呉れないし(;^ω^)。

 

中央線で茅野着が8時でしたが、茅野に着いた時には土砂降りで電車から降りるのに輪行袋を頭の上に捧げ持って駅舎迄走る(;^ω^)。

 

駅舎から出るに出られない土砂降りでもT君は行きたいと言うので、峠で傘を差して登れる訳も無いけど近くにあった雑貨屋さんへ行き、一番安い当時流行って居たワンタッチで開く長い『ジャンプ傘』を買って駅に戻ってきたらなんと雨は上がって快晴に(;^ω^)。オイオイ

 

買った物を捨てる訳にも行かず、自転車のフレームに縛り付けての珍道中が始まりました。

 

 

茅野市の外れ、杖突峠の登り口です。

私はエバレストにガードを付けて来て、買ってしまった傘も縛り付けての一見ミキスト風(;^ω^)。

 

途中の納屋風の建物の影でそれまでの長ズボンから半ズボンに履き替えましたが、前日の夜中に慌てて要らないジーンズを切って作った半ズボンが中途半端に長くて超みっとも無い恰好です(;^ω^)。

 

杖突峠は未だ完全舗装では無くてダートの部分が工事中。

兎に角、前日は全然寝ていないので眠くて眠くて頭が痛くなって来ています(-_-;)。

 

 

杖突峠の頂上小屋は未だ木造の頃で、其処の子供達と仲良くなって一緒に記念撮影です(^^)/。

 

此処が本当の杖突峠の頂上です。

 

高遠への途中で、未だ杉板に石を載せた『石置き屋根』が残って居た時代で、かやぶき屋根は普通でした。

 

小学校への石段、木造の校舎が懐かしいですネ。

 

『えちごや』と看板の掛かった昔の旅籠だった建物。

 

高遠への下りで。

 

この日泊まった高遠の『綿屋旅館』。

良い感じの宿で、2年後にも再び泊る事に。

 

 

折角なので高遠城址公園にも登ります。

旅館の小母さんにハサミをかりて、長すぎた半ズボンを短く切りましたが、今度はちょっと短すぎ?(;^ω^)。

 

今では桜の時期には観光バスで大量の観光客が押し寄せて交通マヒ状態になる高遠ですが、当時はそんな事も無く静かな城跡でした。

 

高遠を出るとホントにのんびりとサイクリングの楽しめる道が続きます。

 

今ではバイパスが出来て通る事も出来なくなったこんな素掘りのトンネルも当時は幹線道路でした。

 

 

 

 

一ノ瀬を過ぎると分杭峠への急なダートが始まります。

 

5月でしたが暑い日でした。

あの頃は暑いと直ぐに上半身裸になっちゃって(;^ω^)。

 

途中で切り出した木材を運ぶための馬が繋がれていたのですが、後ろを通ると蹴られる様で怖くて通れず暫く待って居たんです(;^ω^)。

 

しかし、何時まで待っても退いて呉れず、恐々後ろを通り抜けました(^^ゞ。

 

 

 

道路にカメラを置いてセルフタイマーで撮ろうとして居たら、滅多に来ない車が来ちゃって(;^ω^)。

 

分杭峠到着です(^^)/。ここから突然カラーになります。

エバレストがオレンジ色だった時の数少ない写真です。

 

峠で地元の小母ちゃん達に出逢って色々話して居たら、地元を散々自慢して居ましたっけ。

小さな商店でパンを買って食べようとすると、『マァ、此処に座って・・・』と勧められ、お茶を出して呉れて・・・。

ホントに今までで一番楽しいサイクリングでした。

 

分杭峠を大鹿村に向かって下りますが、未だ大鹿村のさくら屋商店のサザエさんはお嫁に来て居ない頃です(;^ω^)。

 

 

 

フレームに括りつけた長いジャンプ傘が笑えますネ(^^)/。

家へ戻ってから暫く便利で使って居ました。

 

伊那大島へ下って其処から新宿まで輪行。