東京をデザインした男、偉大過ぎた後藤新平 | ブロッコリーな日々

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アイドルマート下花店店長の落書き

1920年代に東京市長を務めた"後藤新平"を小池都知事は、知らないわけがないだろう。

大正9年、東京市議は満場一致で後藤新平を市長に推したのだ。

後藤新平は、内務大臣の経験があった。いわば政府の重鎮である。彼の側近は市長就任に猛反対する。

そのとき彼は「人生、一度は貧乏くじを引いてみるか」と、悠然として市長を引き受けたという。

 

新型コロナウイルスの感染が日に日に拡大し、百年に一度の危機と言う人もいる。
現在、東京では第3波に見舞われ医療崩壊寸前の危機に直面している。

 

今から125年前、現在と似たような状況で疫病の蔓延を食い止めた人物がいた。その人こそ「後藤新平」である。

後藤は明治から昭和初期にかけての激動の時代に、壮大なビジョンを掲げ、公衆衛生、鉄道事業、都市政策、復興計画などの分野で多大な実績を残している。しかし生まれた時代が早過ぎたのか、当時の人々には彼の描いた構想が理解されず、数十年後の時を経てようやく開花した事業もあるという。
 

後藤新平の経歴を確認しておく。
安政4年、現在の岩手県水沢市に生まれた。
19歳で医師となり、24歳にして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)校長兼愛知県病院長としてのキャリアを積む。

彼は若い頃から「一医師としてよりも国家をなおす医者になりたい」との志を抱いていたという。

明治15年、「板垣死すとも自由は死せず」で知られる板垣退助が遊説先の岐阜で暴漢に襲われた岐阜事件が発生した。その時、名古屋から岐阜まで人力車を飛ばし負傷した板垣退助を診察している。

後藤は、板垣を一目見るなり大声で「ご負傷だそうですな。本望でしょう」と言い、治療を受けた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にした。

その直後、内務省に送った国の衛生行政に関する意見書を読んだ局長が、一病院長としておくのではもったいないと採用する。その後、ドイツ留学を経て、順調に出世し衛生局長になるも、その翌年、相馬事件(旧相馬藩の家督争い)に連座して半年にわたり獄中生活を送る破目になってしまうのだ。

 

結局、無罪になるのだが、失職してしまった。
釈放後、日清戦争が勃発した。戦地では衛生状態が悪く、コレラや赤痢など伝染病が猛威を振るっていたのだ。

戦争が終われば、大陸から24万人近い兵隊が復員してくる。

そうなると復員兵と共に日本国内に疫病がもたらされる危険性があった。

この時、陸軍の野戦衛生長官だった石黒忠悳は後藤新平のかつての上司で、後藤の能力を高く買っていた。

そして、失業中の後藤に復員兵の検疫事業を担当させようと考え、後藤を連れて陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に面会する。
 

戦争終結が近づいた明治28年4月1日、後藤は帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官職に復帰する。わずか2カ月という短期間で、広島・宇品港似島、下関近くの彦島、大阪の桜島の3か所に巨大な検疫所をつくった。似島では1日6千人、彦島、桜島ではそれぞれ1日3千人を検疫する計画を練り、総建坪22,660坪、401棟の検疫所を完成させた。

 

検疫所建設の前後4カ月は、朝7時から夜9時まで椅子に腰を下ろした事はなく、43日間床に入らなかったという。

なお、日清戦争後の検疫では消毒した艦船は687隻、総人員232,346人、その内コレラ患者総数は369人だったそうだ。

彼は、この検疫を2カ月で完了させたのだ。
 

後藤新平は、自分の年棒は、全額東京市に寄付し、所得税まで払ったという。

彼の鮮やかな施策は群を抜いている。政治家たちには、後藤新平の爪の垢でも飲んで欲しい。