実は西郷隆盛は「征韓論」を唱えていなかった | ブロッコリーな日々

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アイドルマート下花店店長の落書き

日本史で学んだ事柄にその後の歴史研究で史実が覆されていることがある。

「征韓論」もその一つであった。

「征韓論」とは文字通りに読めば「韓国を征伐する」であり、武力で朝鮮を支配しようとする主張のことである。

この論を唱えた主役は、西郷隆盛とされている。日本史では、確かにそう習った覚えがある。

 

しかし、このころの文献、史料のどこにも、西郷がこれほどはっきり「征韓」を唱えたという記録はないという。

では、西郷の考える「征韓論」とはどのようなものだったのだろうか。検証を加えたい。

 

明治政府が次第に形づくられる中、日本の統治者が将軍から天皇に代わったことで、日朝関係を正常化させようという動きが起こった。初めは、日本の王政復古を通知する外交文書を朝鮮政府が受け取りを拒否するという行為に端を発している。

 

日本が幾度となく派遣した使節もかいなく、朝鮮側は国交断絶の強い姿勢を見せたのだ。明治政府の国書には「皇上」や「奉勅」という言葉があり、朝鮮側にとって、そのような言葉を使うのは宗主国である清国の皇帝だけだという認識があった。当時の政府には「宗主国」という概念を熟知していなかったのではあるまいか。

 

明治3(1870)年4月、外交官の佐田白茅(はくぼう)が森山茂とともに使節として釜山に派遣されたが、朝鮮側の態度に憤慨し、佐田は帰国後激しい征韓論を唱え始めた。この佐田の征韓論に当初賛成したのが、後に大反対の姿勢をとった木戸孝允であった。佐田の熱心な遊説は次第に他の政府高官たちを洗脳し、征韓論は明治政府内で非常に熱を帯びたものとなった。

 

西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣するといった閣議が決定した。だが、この決定に岩倉具視は内心では異議を唱え明治天皇に虚偽の報告を行ったという。そのため西郷は憤激して参議を辞し、下野してしまった。

 

もし西郷隆盛下野事件がなく、彼が無事に朝鮮に渡っていたなら、それ以後日朝両国の友好が醸成され、東アジアの近代史はまったく別の様相を示していただろう。惜しい事をしたものだと思う。