1942年に富谷食堂は、軍の指定食堂に認定される。
そして1945年3月、沖縄特攻作戦が発令される。片道燃料だけ積んで、敵艦に体当たりする。
戦争史上類を見ない最前線基地が、この鹿児島県知覧に置かれていた。
富谷食堂を切り盛りしていた島浜トメは、その隊員から「お母さん」と慕われていた。
特攻隊員は、4,5日の滞在で機上の人になり、二度と帰ってこなかった。20歳前後の若者たちであった。
島浜トメは、純真で幼児のような若い特攻隊員たちを親身に世話をしている。自分の着物や自宅の家財、調度品を売り払ってまでお金を工面していた。そして、無償で夜食を用意して彼らに提供していた。特攻前夜には、タダで焼酎を飲ませたこともある。
やがて、敗戦。
世間の特攻隊への関心は消えて行き、次第に冷たいものになっていく。
それでも島浜トメの隊員たちの追慕の情は変わりがなかったという。
彼女は、知覧飛行場の片隅に小さな棒切れを立て、そこでの墓参りを続けていた。
島浜トメの行動に心を動かされた隊員の遺族や陸軍関係者を動かし、1955年(昭和30年)9月には、「特攻平和観音堂」が建立された。
現在、全国から多くの訪問者が慰霊に訪れている。
「特攻平和観音堂」には、当時の隊員の遺書や遺品が数多く陳列されているという。
「特攻の母」として慕われた島浜トメは、平成4年、89歳で他界した。