逆境を乗り越える覚悟
--「白洲次郎」の生き方に学ぶ--その1
『戦争には負けたが奴隷になったのではない!』
白洲次郎が人生で最も力を尽くしたのは、GHQとの日本国憲法をめぐる闘いであった。
1985年(昭和60年)に永眠。享年83歳であった。「葬式無用、戒名不要」の遺書が残されたという。
妻・正子は、「夫は、平和な世の中に通用する人間ではなかった。彼は、乱世に生きがいを感じるような野人」と評している。
敗戦によって無条件降伏したわが国は、GHQによって無力化されていくのだ。
だが、神の如く難題を押し付けてくるGHQつまり占領国アメリカに対して、昂然と闘った日本人が居た。
写真は,吉田茂
そのひとりは「吉田茂」であり、もうひとりは「白洲次郎」であったという。
この二人は「プリンシプル」つまり日本人の原理・原則をGHQに対して曲げはしなかった。
サンフランシスコ講和条約で、吉田茂は首席全権で受諾演説を行うことになっていた。
原稿は外務省職員が作成していた。英文であった。それを事前に知った白洲次郎は、驚いた。
「ようやく、戦勝国と対等の立場になれる会議で、その晴れの日の原稿を相手国の言葉で書くやつがあるか!」
彼は、職員を怒鳴りつけたそうである。一事が万事であった。彼は、「プリンシプル」を曲げなかった。
白洲次郎は、1902年(明治35年)兵庫県芦屋に生まれた。祖父退蔵は三田藩の儒学者だった。そして父・文平は絹貿易で財を成した大富豪だった。この年は第一次日英同盟が調印されている。