容疑者扱いされた河野義行さん。意識がもどらぬまま妻は息をひきとった。
『いつまでもオウムを憎むのはやめよう--』
河野義行さんは、自分に言い聞かせていた。
容疑者扱いされた日々を思い出した。彼らを赦すことなどできはしない。
そんな煉獄の毎日が続くなかで、河野さんは一人の男性の訪問を受けた。
彼の名は、「藤永孝三」という。
10年の刑期を終えた元オウム信者であった。
松本サリン事件に関与して懲役10年の刑に服した。
彼は、実行犯ではないが、噴霧車の製造を担当したのだ。
そして、社会に復帰したいま、実家のある山口市で暮らしている。
彼は、2006年10月から2,3ヶ月に1度、河野宅の庭の手入れを手伝っていた。
謝罪に訪れて始まった河野邸の庭の手入れだった。「藤永孝三」は、山口から高速バスで通っている。
二人の交流が始まったのは、2006年の6月27日。事件から12年にあたる日だった。
その3ヶ月前に出所した藤永は、河野邸にとなりあう駐車場に立った。
すでに脱会していたが、オウム真理教から改組した「アーレフ」の信者たちと一緒に訪れたのだ。
彼らは、サリンが噴霧した現場で手を合わせた。
「藤永孝三」は、河野義行さんの手記『妻よ!』を取り寄せて読んだ。
教団の身代わりに罪を着せられかけた苦しさや物言わぬ妻への献身ぶりに揺さぶられ、どうしても謝らなければ、と思ってきた。
黙祷を終えると、藤永は元信者たちに誘われて隣の河野邸を訪れた。
居間に通されたものの、正座したまま目を上げられない。でも、謝罪の言葉を発しなくては。彼は、意を決して視線を上げた。
「私は、ここに来られる立場ではありません。でも、早く花束をもって謝罪したいと思っていました」
河野さんから、どうして捕まったのか、とおだやかな声で聞かれた。
地下鉄サリン事件直後の1995年4月、教団幹部の「村井秀夫」が刺殺された翌日、防弾チョッキを買いに出掛けた東京で逮捕されたのだった。当然のように行われていた別件逮捕だった。
「あんたもツイてないね」河野さんの言葉で空気がほぐれた。
藤永は問われるままに、服役中の様子についても話した。
「いろんな作業をしたんですが、とくに植木の剪定は面白くて資格をとりました」
出所後、自立して生活できるようにするための職業訓練のひとつだった。
1年かけて、庭木を刈り込む技術を身につけた。
「ならば、この庭の手入れをすればいいじゃないか」同席していた保護司が口をはさんだ。
河野さんが同意した。藤永はあわてた。自分が引き受けていいのか。そんな資格があるのか。
彼は、とっさに答えが見つからなかった。
「本当に、私がやってもいいんですか」
河野さんはうなずくと、ひとつだけ言っておきたいことがある、と付け加えた。
「義務だと思って来るのなら、お断りします。心底やりたいと思い、それを負担に感じないのならお願いします」と。
河野さんは思った。『恨みの中を生きることを選びたくなかった、
限られた人生の貴重な時間をオウム真理教を恨むことに振り向けたくない』 と。
河野義行さんと「藤永孝三」のあたたかい友情は現在も続いている。