吉本復帰も最悪の結果---「太平サブロー・シロー」の場合 | ブロッコリーな日々

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アイドルマート下花店店長の落書き

1980年代のMANZAIブームをご記憶だろうか。

漫才コンビ「太平サブロー・シロー」

 

現在関西で活動するサブロー

在りし日の相方大平シロー

このブームで”一世を風靡”した漫才コンビ「太平サブロー・シロー」がいた。

サブローの相方「太平・シロー」は、”難治性心室細動”で急死していた。享年55歳だ。

 

彼は、西川きよしやデーモン小暮らの独創的なものまねを得意にしていた。

「島田紳助」が漫才を諦めてコンビを解散したのは、「サブロー・シロー」と「ダウンタウン」にはかなわないからだと言われている。


「確かにシローさんは天才でした」と語るのは、お笑いに詳しい関西在住のコラムニスト・吉村智樹氏である。
彼は、台本もなくネタ合わせもしないのだ。

出番当日、相方のサブローさんに『オレが酔っ払いになるから、絡まれる役をやって』と言うだけであった。

なのに本番ではテンポのいいやり取りで大うけを取るのだ。

 

1992年のコンビ解散後、若手とコンビを組んだり、『太平シローと懲りない面々』というものまねコント集団を「うめだ花月シアター」でやっていた。だが、シローの厳しい指導のプレッシャーにノイローゼに追い込まれ、入院した芸人もいたそうだ。

天才ゆえにプライドも高かった。1988年、吉本興業から独立して東京に進出したのは、明石家さんまや島田紳助の成功に刺激されたからだという。だが、彼の挑戦はあだ花に終わる。天才芸人と賞賛された関西時代、さらに高みをめざして挑戦した東京時代、すでに東京には彼らの居場所はなかった。
 

「サブロー・シロー」は吉本興業に詫びを入れて復帰する。だが、その屈辱的な復帰条件は、世間に衝撃を与えている。
吉本興業「鬼の復帰条件」をここに紹介する。

 

第一条:復帰後3ヶ月は、ノーギャラ。

第二条:吉本を通さない営業をしない。

第三条:吉本内で独立する動きのあるタレントがいれば、その説得役を引き受け、それを使命とする。

第四条:今後吉本への不満は口にせず、独立という思想は持たない。

第五条:2週間以内に故・林正之助会長の墓参を済ませる。

第六条:無条件降伏すること。

第七条:明石家さんま、オール巨人、島田紳助が保証人となる。

 

その一方、コンビ復活を希望したシローに、サブローは、『わしには、コンビ復活なんて頭にない』と呟くのだ。

それを聞いたシローは、寂しそうに下を向いたという。