今を時めく大スターの「ジョニー・デップ」だが、20代で挫折を経験している。
彼もまた、俳優での成功を夢見て、ケンタッキー州からハリウッドに移住した。
フリーターで生活しながら俳優への訓練に明け暮れた。
恋人にも女優のたまごを選んだ。
彼もまた、希望はハリウッド・スターであった。それをひとときも忘れはしなかった。
20代半ばになった頃、彼はあるオーデションを受けた。
彼女と二人でエントリーした。そして監督の目に留まったのだ。
だが、プロデューサーは反対する。結局彼女だけが採用された。大変な屈辱だった。そのためか、恋人とは別れてしまった。
「ジョニー・デップ」は諦めず挑戦を続けた。そして80年代、転機がやってくる。
彼は、人気テレビ番組「21ジャンプストリート」の主役を射止める。テレビでアイドルスターになったのだ。
だが彼は、映画への進出を諦めきれなかった。
やがて、ティム・バートン監督とのコンビで大ヒットを飛ばす。
それが「エドワード・シザーハンド」だ。当時の恋人はスーパーモデルだった。ところが、そしてニューヨークのホテルで彼女と大喧嘩、警察を呼ぶ騒ぎに発展する。
そして人気絶頂だった「リバー・フェニックス」が、あろうことか、「バイパールーム」で麻薬中毒死を遂げたのだ。
このクラブはジョニーデップがオーナーであった。度重なるスキャンダルにデップは窮地に追い込まれる。だが、バートン監督や仲間たちはデップを見捨てなかった。懸命に彼を擁護して回った。
彼が「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズでブレイクするのはその直後である。
「ジョニー・デップ」は云う。
『挫折しても継続することが夢の実現への唯一の道だ。そして、その勇気を支えてくれるくれるのが人脈だ』
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