正観さんによると…。

 

●宇宙のしくみは「成せばなる」とはなっていない

 

 なぜ人間は、自分がただ生まれてただ散っていくことを、受け入れられないのでしょうか。それは、「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」という言葉を、学校で教わったからかもしれません。

 でも宇宙のしくみは、そうはなっていないようです。

 

(イラストはネット画像です)

 

👣街道をゆく~29 本所深川散歩 赤坂散歩 ~ 江戸っ子の気っぷ

   司馬遼太郎 朝日ビジュアルシリーズ👣

 

 

 

その1 「とりあえず 江戸っ子の産地じゃないか、とおもった」

 

 その男装にふさわしく、その気風は勇肌で、「きゃん」とよばれた。侠のことである。

 きゃんは、初めは男女いずれにも通用することばだったようだが、江戸中期の安永年間(1772~81)ごろから、男については、「いなせ」といった。

 『街道をゆく』で東京をとりあげようとおもったものの、ひろい東京の中で、小さな一区間を切り取るについては、ずいぶん思案した。結局、「本所深川」ということにした。

 とりあえず江戸っ子の産地じゃないか、とおもったのだが、本当にそうなのかどうか。

 なにしろ、東京というのは、〝気質文化”において、なかなかうるさいところなのである。

 

 

その2 「〝かねを溜めるな、腕をみがけ”でなければ、職人はなりたたない」

 

 江戸っ子のうまれぞこないかねをため

 

という古川柳があるが、この場合の江戸っ子は職人のことであって、まちがっても商人や商家の手代のことではない。商人にとってかねはいくさの夜弾だから、資本を溜めたり、ふやしたりせねばなりたたない。

 一方、職人は腕でめしを食っている。

 この点、角力とりとかわらない。ろくに稽古もせず、いつも負けている角力とりが、もし金ばかり溜めているとしたらどうだろう。角力とりも職人も、腕に米のめしがついて回ってくるわけで、腕をみがきさえすればかねになる。職人の経済というべきもので、〝かねを溜めるな、腕をみがけ”でなければ、職人はなりたたないのである。

 

 

その3 「江戸のよさの一つは、地名がいいことである」

 

 さて、本所である。

 深川と並んで、いわば一つ地域をなしている。深川ともども、江戸中期、遅まきに江戸化した。

 江戸のよさの一つは、地名がいいことである。

 響きがよかったり、また意味に趣きがあったりする。

 本所割下水という地名もいい。

 土木的呼称が、そのまま夏の蚊の羽音から、満潮時のかすかな潮の香まで感じさせて、風趣がある。堀の両岸には木柵が施されていたという。

 

 

 

その4 「朱漆によく似あって神寂びた色気さえ感じさせる」

 

 東京には氷川という地名や氷川神社が多く、関東南部特有の地名といっていい。氷川という名は、埼玉県の大宮にある氷川大社から出ている。

 この赤坂の地に氷川神社を鎮めたのは、八代将軍吉宗(1684~1751)だった。吉宗は、幕府の中興のぬしといっていい。かれがいわゆる「享保の改革」でもって幕府をたてなおさなかったなら、幕府はもっと早く衰微していたにちがいない。

 石畳を踏みつつ社殿にむかうと、古い樹々が元気よく梢をのばしていて、まことに気分がいい。

 江戸の宮大工は腕がいいとされたが、ただ東照宮の影響のせいか、装飾過剰のきらいがある。

 ところが、この赤坂氷川の拝殿・社殿は朱塗をかけてところどころ剛い金具を打っただけで、じつにすっきりしている。

 この簡素さが、倹約第一の吉宗の施政方針のあらわれだったとすれば、美的にもプラスに働いている。表現の抑制が、内籠りの力になっていて、拝殿の明り障子の採光のぐあいなどもじつにやわらかく、それに御簾と青畳が、朱漆によく似合って神寂びた色気さえ感じさせる。

 

     

 

その5 「乃木坂と乃木神社」

 

 赤坂には「乃木坂」がある。

 この名称は、明治の軍人にして赤坂の乃木神社の祭神である乃木希典(1849~1912)からとられた名であることはまちがいない。

 この人は,長府藩(長州毛利家の支藩・5万石)の江戸藩邸にうまれた。藩邸は、赤坂の隣りの六本木にあり、十歳で帰国するまでこの地で育った。

 藩邸をかこむ長大な塀に、通用門があいていた。敷地内の乃木宅からその通用門までゆくのがたいそうな道のりだったらしい。さらには、通用門を出ても、そのあたりはさびしく、幼い希典は、毎日、手習いや礼式の稽古のために門外へ出ねばならないのに、外へ出るのがいやで、弁当を腰につけたまま、夕刻まで通用門の内側で立っていたことがあったという。

 母の寿子は、常陸土浦藩長谷川金太夫の娘で、若い頃土浦藩の上屋敷で藩主夫人の侍女を務めていた人である。ある日、

「御門番に、葉つきの竹を二本あずけてあります。手習の帰りに受け取って持ち帰るように」

と八歳の希典に命じた。

 帰路、傘も役立たずになるほどの大雷雨になった。希典は片手で傘の柄をつかみ、同時にその手で手習帳を背負い、他の手で子どもの力にあまるほどの二本の葉つき竹をずるずる引きずって、泣きながら藩邸のなかを歩いた。邸内は坂が多く、乃木宅に行くだけでも二つの坂があったという。

 ともかくも、わずか5万石の毛利家の支藩の江戸屋敷でさえ、右のように広かった。

 私どもは乃木邸を出て、それに隣接する乃木神社に詣り、鳥居を出て、乃木坂に立ってみた。

 江戸時代、この坂は〝幽霊坂”とか〝膝折坂”などと呼ばれていたが、大正以後、乃木坂にあらためられた。日露戦争のとき、希典はこの坂をのぼって、ロシア軍のいる遼東半島にむかったのである。

 

💛「坂の上の雲」は、たぶんあの頃の一般的な坂を思われてつけられたタイトルだと思いますが、もしかしたら、何分の1かは作者の司馬さん、この乃木坂も心の中に思い浮かべていらっしゃったのでは?…なんて思った次第です。乃木坂46は今も人気ありますが…。

 

 

💛私の好きな歌💛

 

1009曲目 「スキスキ星人」  すとぷり

 

若い友達から教えてもらったスキスキ星人。

イラストがかわいいね。

若い男性が歌うのがまた今風なんでしょうね。

歌もかわいい!つい笑顔になっちゃうね。

 

今日も見ていただいてありがとうございます。

3連休いろいろあって、疲れちゃったー。

さあ、今日からなんか本格的に仕事を真剣にがんばらなくちゃです。

今週は4日がんばればいいのね。

みなさんも私もファイトです。

オミクロン株、デルタ株に気をつけて…。

次回は、木曜日にお会いしましょう!

ごきげんよう!またね…♪