正観さんは、
究極の愛の形は、
「ただ、相手のそばにいてあげる」こと
と言われています。

 自分の存在が「感謝」され「喜ばれる」という幸せを味わってしまうと、至上の喜びを感じることができます。

 では、「自分の存在が感謝される」ためには、何をすればよいのでしょう。究極的には、
「その人のそばにいてあげること」ではないでしょうか。

「仁」という文字は、「人が二人」と書きます。「人が2人いる」という意味です。
 正観さんは、「仁」こそ、究極の愛の形であると同時に、いちばん簡単な愛の形であると考えられています。

 究極の愛とは、おそらく「仁」です。
特別なことをしなくてもいい。

 フランスの宗教史家、ルナンが書いた「イエス伝」によると、
「イエスはこの世では無力だった。何もできなかった。ただし、苦しむ人を見捨てなかった。孤独な老人のそばにじっと腰掛けていた。女たちが泣いているとき、そのそばにいた。自分を裏切った者に、恨みごとひとつ言わなかった。イエスの生涯は、ただそれだけであった。」

 イエス・キリストは、「仁の塊だった」といえるそうです。

 なるほどなーと思います。
 昨年次女が心の病を抱えていた時、自分の無力さを味わいましたが、自分にできることは仕事をしながらもなるべくそばにいることだった。それしかできなかった。けれどもそれがよかったのね。今はもう元気にモリモリアルバイトに励んでいます。
 
 長女も義父の家に居候をしながら働いていたけれど、体調を崩し、家に帰っておいでと言うと、今はおかげさまで元気モリモリ音楽の趣味を楽しみながら仕事に励んでいます。
 
 長男は、土曜にフラーと帰ってきて、家にあったパンを食べていました。はじめてメモ用紙に「パンおいしかった」と小さなラブレターの置き手紙をしてくれていました。この子もアルバイトで、少し成長していますね。
 
 夫のドラゴンくんは、もうかれこれ30年くらいのおつきあいですが、出世はあきらめて、ただ家族と一緒にいるのが究極の幸せと思っている節があります。義父母もそうでした。私の両親も、父は単身赴任をしたけれど、やはり家族愛が強かった。今でも夫婦で施設に仲良くいますもの。

 今、私は人生残り少ない3人の両親たちともう少し一緒にいる時間を増やしていくことも価値があるのでないかなと悩んでおります。仕事と両親。仕事もやりがいがあるのですが、両親も大切だものね。