目が覚めた頃にはすでに妻は起床しており、リビングでテレビを見ていた。私はゆっくり体を起こして妻におはようと声をかける。しかしながら反応は渋い。そんなことは日常茶飯事のことなのだが、昨夜午前様になったことで後ろめたい気はしたが、特にそのことについて聞いてくる様子はなかった。ただ何か言いた気な雰囲気は醸し出していた。まあ、まずもって何か言うにしても昨夜遅かったことへのただの文句だろうとは思ったが。
私は激しい喉の渇きを覚え、台所でお茶を飲んだ。相変わらず台所やリビングは昨夜使用したであろう食器や子供のおもちゃで散らかったままだった。私がいないと妻は基本的に片付けをしようとしない。片付けなんていつでもできるというのが妻の考えだ。私はそんな妻の考えが大嫌いだった。家族の集まる台所やリビングはいつも綺麗であるべきだと考えている私は寝起き早々に片付けを始める。こんなことはいつもの光景だった。散らかった食器を食洗器にかけ、出したままのおもちゃを何も言わずいつものようにもくもくと私は片付けた。
そんな、いつもの光景・・・いつもの行動・・・。日常の、家族の一人としての行動。よく家事をする一家の主の行動。そのはずが・・・。
それを見た妻は私に対し言葉を発した。
その顔は決して冗談を思わせる顔ではなかった。それはごくごく当たり前な言葉なのかもしれない。普通に生活していれば何も驚くことではないかもしれない。やましいことが無ければ普通に聞き流せることかもしれない。しかし、その時私はその言葉を聞いて、今までに感じたことのない嫌な予感、今にも心臓が口から出てしまうのではないかという思い、そして、頭を何かで殴られたような、目の前が真っ白になるような、そして今迄夢中になっていて考えもしなかったことに気付かされる、そんな思いにさせられる言葉だった。
「おかしい!絶対おかしい!こんな朝からてきぱき片付けするなんて、絶対おかしいよ!昨日何かあったんじゃないの?最近おかしいよ!高知に旅行に行ったりもしたし。今迄こんな遅い時間に帰ることなんてなかったのに!」
決して私と彼女の仲を感付いたわけではない。具体的に何がおかしいことなのかはっきりは言うわけでもない。彼女との関係が始まる前も同じように家族を残して友人と旅行に出かけたこともある。しばしば夜釣りにも出かける。飲み会があっても深夜に帰ってくることも昨日だけではなかった。それなのに・・・妻は妻なりに何かをその時感じたのだろう。瞬時にその時思った。これが「女の感」というものなのか・・・。
私は平静を装い取り敢えず弁解を試みた。家事をするのはいつもの行動だし、たまたま散らかってたのが気になったこと、高知の旅行については早い内からその計画について話していたことであって、今更そんなことを言うのはおかしいと伝えた。そして、昨日遅くなった原因については、酔いつぶれて飲み屋で寝込んでいて、一緒に行ったものはそれまで店で飲み続けていた、と思いつきで説明した。
妻はそれを聞いてまだ納得いかない様子だったが、特にそれ以上私を問い詰めようすることはなかった。多少険悪な雰囲気になったが、いつもの口喧嘩のように、時間が経つにつれてそんな雰囲気もいつしか泡のように消え去ってしまった。そして私自身も一通り片付けを終えて平常通りの休日の朝を過ごした。
ただ、「平常通りの休日の朝を過ごした」のは、あくまでも表向きだけのものだった。心の中では今迄に考えたことのない不安が私を襲い始めていた。確かに妻に疑われたことは無理もない話だ。遅く帰ると翌朝の妻の顔を見るのが嫌であるのはいつものこと。だからと言って特に浮気がばれたというわけでもない。
何が不安だったか・・・
私は妻の言葉を聞いたその一瞬、不穏な想像が頭をよぎったのである。一瞬、ばれたのかなと思ったがすぐにそれはないと判断できた。しかしその反面、彼女との関係が判明してしまった時の光景が頭をよぎったのだ。安定した収入もある。かわいい娘もどんどん成長している。妻には昔ほどの感情も持っていないが、それなりに自分にとってはかけがえのない存在だ。新しく住むことになった一戸建ての家もある。何の不自由もない生活。そんな生活が、がらがらと音を立てて崩れていく光景が、その一瞬の間に頭を駆け抜けていったのだ。
その朝以来、一日中頭の中で思い悩んだ。私は何をやっているんだ・・・。もう、こんなことは止めにすべきではないのか・・・と。そうやって彼女との関係に終止符を打つことも考えた。しかし、そう考えることで更に苦しくなっていく・・・。
彼女に対する想いは、そんな妻の一言で揺らいでしまう程脆いものだったのか?そんなはずはない・・・あんなに、あんなに愛してるのに・・・あんなに愛し合ってるのに・・・決して遊びなんかじゃない、彼女の体だけが目的じゃない・・・なのに、なのに・・・なぜそんなに不安になるんだ・・・わからない・・・わからない・・・彼女に対する気持ちは今までとなんら変わりないのに・・・大好きなのに・・・なぜ終わりのことなんて考えるんだ・・・
ん?ん?あれ??「好き」ってなんなんだ?今迄何気なく彼女に発していた「好き」って・・・こんな脆いものなのに、好きだなんて、言っていいのか・・・あまりにも無責任じゃないのか・・・じゃあ、私は彼女をいったいどんな風に思っているんだ・・・
何が何だかわからなくなっていた。彼女に対する想いは以前とは変わらない。一緒に過ごしたい、手を繋ぎたい、肌を触れ合いたい、話がしたい・・・そんな気持ちは日に日に強くなる一方だったが、ただ、その「好き」の意味を考え始めた私は除々にその言葉を発することに自信と責任が持てなくなっていた。そして、その日の束の間のメールの中でさえも、彼女に「好き」とは言えなくなっていた。ましてや、8月に入ればより一層会える機会が少なくなってしまうこの時期に、決して解くことできないであろうその問題のドツボに私は足を踏み入れてしまった。
ただ、まだ私はどこかその問題を楽観視していた。
これから会う回数は減ってしまうけれども、彼女に会えば必ずきっと答えは見つかるさ・・・体を重ねれば、そんな悩みもいつしか吹っ飛んでいくさ・・・
この頃、まだ私は事の重大さに気付いていなかったのだと思う。そして、後々考えれば、これが二人の関係の転機であったのかもしれない。
やはり馬鹿のヘタレのクソオヤジだ・・・