妻は育児休暇を終え仕事に復帰し、娘は保育園に本登園だ。今迄のようにのんびり朝飯を食べて出勤する暇はないだろう。娘を保育園に送るのは妻の役目であり、加えて私より早く出勤する。そうなると朝の洗濯物や片付け、ごみ捨て等は私の仕事。仕事が終わって家に帰ると早々に食事を済ませて娘を風呂に入れ、遅くとも午後9時に就寝させる必要もある。予め、そういった予行演習のようなことはしてきていたつもりだったが、実際のところどうなるのかなど検討もつかなかった。そして心配なことに、娘は7月から保育園に通い始めて度々風邪をもらって帰るようになっていた。8月の初日でさえもすでに風邪をひいている状況で、いつお迎え要請の連絡が入ってきてもおかしくない状況でもあった。
こんな状況を踏まえて、彼女にはなかなか勤務後は会えなくなる、と事前に伝えておいた。甚だ不本意であるがそれを隠すわけにもいかなかった。彼女はそれを受け入れてくれた。内心いい思いはしなかっただろうが覚悟はしていたようだ。自分自身も、そんな生活になれればそれなりの関係を彼女と続けていける、とも思っていた。
だが、一つだけ不安なこと。7月末の飲み会後に午前様になった時の妻からの一言で自分が愕然としたことだ。幸せな家族が音を立てて崩れて行く様子が頭をよぎったこと、そしてそれに伴って自分が抱いている彼女への気持ちの脆さに気付いたこと。数日も経てばそんな不安も少しは和らいで来ていたものの、心の片隅にしつこくこびりついて離れてはくれなかった。
そんな気持ちを抱いたまま8月はスタートしたが、やはり物事はスムーズには進まないようだ。
職場では一ヵ月後に控えた会議の準備や、現場での仕事を抱え、なかなか彼女と会話をする暇もない状況だった。上司からは無理難題を押し付けられ、いらいらが募る。仕事中、そんな私の雰囲気を察して彼女は優しい声を掛けてくれたが、それに対してうまく自分の気持ちを返すことすら難しかった。
そんな状況の中、妻から携帯に電話が入る。急に体調が悪くなったと言う。娘ではなく、妻自身の体調だ。しかも、子供を保育園に置いて帰っており、娘をよろしく、とのこと。加えて一人ではもう動けないので病院に連れて行ってくれという。そんなわけで8月に入って早々、早退を余儀なくされた。私は彼女にそのことを気付かれないように上司に事情を説明し帰宅する。しかしながら突然いなくなるわけなので、何か緊急のことがあったことなど彼女には容易に判るものだ。しかしそれを自分から彼女に事細かく説明することなどできなかった。
妻は翌日の土日に職場旅行を控えており、随分前からそれを楽しみにしていたようだ。しかしながらそれは不運にも欠席を余儀なくされる。結局妻は普通の夏風邪だったようで翌日の昼頃には回復したが、楽しみにしていた旅行に出席できなかったことでご機嫌がすこぶる悪かった。例によってこんな時は全く家事などしようとする気はないようだ。基本的に家事をあまりしない女であるため、結局その皺寄せは私に跳ね返ってくるのだ。確かにそれは気の毒で同情するべきものだった。私は文句も言わずただ家事と娘の世話、妻の世話をこなすだけだった。ついでに娘も風邪気味だったが・・・。
週明けには何とか普通の生活が戻った。戻ったといっても予想していた忙しさは予定通り。例によって私は朝の家事をこなし、仕事が終われば寄り道もせず帰宅してまた家事をする。彼女とは職場でもほとんど会話ができない。夜もほとんどメールをする時間と空間もない。
もう少し待ってて欲しい・・・もう少しでなんとかするから・・・彼女に対しそんな事を思い、数日経過した日。その日も猛暑だった。私が仕事で現場に行って戻ってみると、いつも座っている彼女の机に彼女はいない。トイレかな、と思っていたが戻ってくる気配はない。あまりそれを心配して周りの同僚に探りを入れてしまうと良からぬ疑いを掛けられそうだったので知らぬ振りをしていると、私が仕事をしている後ろの方で同僚が何やら話すのが聞こえる。耳をじっと澄まして聞いてみた。
「○○さん、今倒れて休養室にいるらしいな~」
え!!??彼女が倒れた!!??一瞬耳を疑った。
彼女が倒れた・・・。それが耳に入った瞬間、私はすぐに思った。自分のせいではないか・・・と。ここ数日、同じ職場にいてもまともに会話もできていない。仕事後に送って行くこともできていない。メールもろくにできていない。当然触れ合うこともしていない。そして、「好き」の一言も伝えられていない。自分よがりな考えであるかもしれないが、恐らく彼女は私が家のことに重きを置いていることに対して思い悩んでいるのではないか・・・。思えば、ここ数日、彼女の顔色は思わしくなかったのだ。彼女の性格なら有り得ることかもしれない。私の家庭を気にして自分の希望を押し殺していることは容易に推測できた。
上司達は何やらひそひそと相談をし始めた。誰が彼女を家まで送って帰るか、と。そんな話になると我が我がと言わんばかりに名乗り出てくる連中が増え始めた。私はそんな会話の中に入る気など毛頭なかった。誰が彼女を送らせるもんか。彼女は、彼女は・・・俺の彼女だ・・・。私はすぐさま携帯電話を取り出して彼女にメールした。大丈夫か、送って帰るから、と。この日は家のことなど考えなかった。とにかく彼女が心配だった。もし彼女が倒れた原因が私なら、少しでもそのケアをしたかった。
しばらくすると青白い顔をした彼女が戻ってきた。何やら皆に質問攻めにあっている。聞けば、あまりの暑さで気分が悪くなって廊下にうずくまっていたところ、それを見た人が休養室まで運んだということらしい。そして上司達が彼女に対し、誰か送って帰るよ?と伝えると、彼女はそれを、もう大丈夫です、とやんわりとかわしていた。
それから数分後、彼女からメールが入る。「送ってください」と。
こうやって、久しぶりに彼女を家まで送ることになった。