死にたい気持ちは否定されるべきではないと、僕は思う。
というのも、素直であればあるほど人が話す言葉には魅力が増すと思うからだ。
死にたいと嘆く人間、其の背景を鑑みる事は敵わないが僕は彼らを認めている。
死にたいと特別意識することがない、現在に於いてもやはり死にたくなる因子は多分にして存在しているし、其の存在を認識している。
恐らくだが、認識することがなければきっと"死にたい"という気持ちには共感さえできない事だろう。
けれどそれは、偶然にも程があるんだ。だから、皆死にたくて当然なんだ。
しかし、此処で勘違いしてはならないのは皆死にたがっているのかっていうと必ずしもそうでないという事。
君にも当てはまる様に、誰だって自分から何かを奪われるのは好きじゃない。
命を奪われる危機に瀕したらきっと、死にたいと嘆く君でさえ抵抗をすると僕は思うんだ。
だから、我こそは救世主だと皆を殺戮するような人間が現れれば其れはまごうことなき非難の対象に当たり、単なる独り善がりの殺人鬼でしかないんだ。別に僕はこんな話がしたい訳じゃないんだけどさ。
まー、だから私が思うのは否定されるべき表現なんてのは一つたりとも存在しないんだ。
"此れを言ってしまえば、嫌われる"とか"この服を着れば、浮いてしまう"とか所謂空気を読むって概念はストレスを抱える根源になっているんだ。何故なら、自分に嘘をつかせることになるから。
言葉ってのは面白いもので嘘でも吐いているうち真実へと変わっていくんだ。実際に試せとは言わないけど、思ったことを素直に吐けていないとドンドン周りの色に染められていくんだ。絵師がキャンバスに叫ぶようにして描くのは、そんなストレスをぶちまけたいからかも知れない。
画面の中に夢を抱いて、遁走するのはそんなストレスを忘却したいからかもしれない。
善だ悪だとか、そんな二元論、本当の自由には存在しちゃいないんだ。
分断本能によって隔てられまた他者を比較し、自分を誇ろうとするそんな価値観、本当の自由には存在しちゃいないんだ。
自由ってのは、恐ろしくも悲しいほどに綺麗だから君がもし自由を自称するのなら華麗に飛ぶか泳ぐかしてみるといい。
僕は正直な話、いつ死んだって構いやしないけれど生きている限り人生というものを諦めたくはない。