ふりーばーど -3ページ目

ふりーばーど

私の聖書勉強、他徒然

若い時から、とにかく洋楽を聴きまくっていた。そして当時はタバコ・酒はもちろん、シンナーなどもやっていた。

やがて高校に入ったものの、すぐに中退。15才ですでにクルマも乗り回していた(絶対、ダメだよな)。悪仲間と「どこか遠乗りをしよう」という事になり、私は何故か母方の甥っ子がいる青森市の「藤聖母園」という所まで行くことを提案した。私の叔父さんも刑務所に何度も入っているような人だった。ちなみに父方の叔父もヤクザの組長だった。そっち系の因子が私には色濃くあるのかと思っていた。「藤聖母園」を訪ねたとき、シスターに聖書を手渡された。思えばこの時から主の招きがあったのだと思う。

20才ぐらいでディスコDJを目指し、短い期間ではあるが夢を叶えられたこともある。現在も存在する歌舞伎町の某ディスコ。いろいろなジャンルを聴くが今でもロック好きだ。DJに成りたかったのは、マドンナの初期の曲をプロデュース、リミックスしたジェリービーンに憧れたから。ジェリービーンはニューヨークにあったディスコ「ファンハウス」のDJであった。

 


 

マドンナはデビューアルバム制作にあたり、レジー・ルーカスをプロデューサーとしてアルバムを製作するが、完成させてみるとマドンナにとっては満足の行く出来ではなかったため、急遽その当時に付き合っていたジョン・"ジェリービーン"・ベニーテスを呼び、追加製作(多くの曲のリミックスと「ホリデイ」の製作)を行いリリースした。(ウィキペディアより)

 


当時、東京DJ協会会長であり歌舞伎町、東亜会館のチーフDJであったオーティス中村氏に可愛がってもたった。氏とは今でも交流が続けさせてもらっている。当時のDJといえば、たいした給料ももらえず、他のアルバイトをしながらの人も多くいた。私もその一人である。アルバイト先の飲み屋さんで客として来ていたヤクザとの交流が始まる。そして私もヤクザ入り。そして覚せい剤刑務所

少し歳を経て、私はグレゴリアンのサウンドを耳にする機会を得る。グレゴリアンは、エニグマを脱退した音楽プロデューサーのフランク・ピーターソンを筆頭とするドイツのバンドである。往年のロックの名曲をグレゴリオ聖歌風にアレンジした楽曲を発表しMasters of Chant作成の際にはサラ・ブライトマンやその妹アメリアとも共演している。

フランク・ピーターソンの創り出したサウンドに心癒されてキリスト教に興味を持ち始めた。そして、洗礼を受けるに至る。しかしながらキリスト者として自覚が足りず光と闇を行ったり来たり。ヤクザの生き様からは抜け出すことができなかった。ちなみに刑務所には計5回。通算すると10年ほどか😢

3年前に仲間との諍いから、左眼を潰される。顔半分に麻痺があり、そのためDJをしてたというのに少しろれつが回らない時もある。片方の眼の視力も落ちる一方だ。今は昔の仲間との付き合いは断っている。(堅気になったアニキ以外)。主によって遮断されたのだ。こんな者をも主は愛してくださる。聖霊によって、それをひしひしと感じる毎日を生きている。眼を失っても、得られたものは大きかったと得心。

38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマ8:38~39

 

 

 

グレゴリアンwithアメリア・ブライトマン「ザ・ギフト」

 

 

私の他のブログもよろしくお願いします。

聖書勉強専用ブログ 「One Steo Beyond」

 

 

10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くし努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
へブル4:10~11

全能であられる神は、力の唯一の源であられる。自然界において、神はすべてを働かせられる。恵みによって、神は人間が同意し認めさえすれば、同じようにすべてを働かせようと待っておられる。実に、神によって休むことは自分自身を最高の活動にゆだねることなのだ。私たちが「わざを行う」のは、神が私たちの「うちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」(ピリピ2:13)からである。

パウロも自分のことを「私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」(コロサイ1:29)と言っているが、その文字どおりの意味は「私の内でめいっぱいエネルギーを与えてくださるお方のエネルギーによって奮闘している」ことである。神の安息に入ることは自己努力をやめることであり、自分自身を神のみわざへの信頼に完全に明け渡すことだ。

このみことばを正しく理解することが何よりも必要なクリスチャンは、どれほど多いことか。彼らの人生は、真剣な努力とたゆみない奮闘の人生である。彼らは神のみこころを行いたい、神に栄光を帰するために生きたい、と願っている。繰り返される失敗と苦い失望を経験することがあまりにも多くて、その結果、自分から絶望に陥ることがしばしばある。その逆には決してならない。彼らの人生はまさに荒野の人生である。「神の安息に入って」いないのだ。

願わくは、神が彼らの目を開いて、私たちのヨシュアとして、彼らに主イエスを示してくださるように。主は神のみもとに行かれて大祭司として御座に着き、生きて私たちと一つになることで、私たちをその安息と愛の場所に導いてくださる。そして私たちの内におられる主の御霊によって、その天の国の人生を現実のものとし、経験させてくださるのだ。

アンドリュー・マーレー


 

何よりも自分の益になる敬虔な行為とはなんであろう。眠ることだ。では、最も愛する人のためになる信仰的な行為とはなんだろう。休んで、元気を取り戻すことだ。私たちも神の安息に入らねばならない。
 

大切にとってある懐かしの画像

当時、建ったばかりの「キャビン」をバックに

「チャペル」での受け付け風景

向かって右が私です。若かった😁

牧師先生の名前忘れた💦

キッチンの風景

 

賛美。私はPA(音響)を任されていた。

 

 

 

この若い方、念願かなって消防士になったらしい

ワーカー勢ぞろい