神の安息に入る | ふりーばーど

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私の聖書勉強、他徒然

10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くし努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
へブル4:10~11

全能であられる神は、力の唯一の源であられる。自然界において、神はすべてを働かせられる。恵みによって、神は人間が同意し認めさえすれば、同じようにすべてを働かせようと待っておられる。実に、神によって休むことは自分自身を最高の活動にゆだねることなのだ。私たちが「わざを行う」のは、神が私たちの「うちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」(ピリピ2:13)からである。

パウロも自分のことを「私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」(コロサイ1:29)と言っているが、その文字どおりの意味は「私の内でめいっぱいエネルギーを与えてくださるお方のエネルギーによって奮闘している」ことである。神の安息に入ることは自己努力をやめることであり、自分自身を神のみわざへの信頼に完全に明け渡すことだ。

このみことばを正しく理解することが何よりも必要なクリスチャンは、どれほど多いことか。彼らの人生は、真剣な努力とたゆみない奮闘の人生である。彼らは神のみこころを行いたい、神に栄光を帰するために生きたい、と願っている。繰り返される失敗と苦い失望を経験することがあまりにも多くて、その結果、自分から絶望に陥ることがしばしばある。その逆には決してならない。彼らの人生はまさに荒野の人生である。「神の安息に入って」いないのだ。

願わくは、神が彼らの目を開いて、私たちのヨシュアとして、彼らに主イエスを示してくださるように。主は神のみもとに行かれて大祭司として御座に着き、生きて私たちと一つになることで、私たちをその安息と愛の場所に導いてくださる。そして私たちの内におられる主の御霊によって、その天の国の人生を現実のものとし、経験させてくださるのだ。

アンドリュー・マーレー


 

何よりも自分の益になる敬虔な行為とはなんであろう。眠ることだ。では、最も愛する人のためになる信仰的な行為とはなんだろう。休んで、元気を取り戻すことだ。私たちも神の安息に入らねばならない。