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ふりーばーど

私の聖書勉強、他徒然

12 夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。13 そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。14 あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。
ローマ13:12~14

朝、目覚めたらすぐに、自分が神の御前にいることを思い起こそう。長く暗い時間をずっとあなたのそばで見守っていてくださったのだ。御顔を仰いで感謝をささげよう。

寝床を離れる前の数分間、神に想いを集中しよう。「主の臨在の御使い」から流れ出る金色の光の霞を通して、今日の来るべき日に目を向けるのだ。

あなたはどんな困難が待ち受けているか、十分には予測することはできない。どの方角から攻撃を受けるか、どんな重荷を背負わねばならないか、予測はできない。これらのものを神から離れて見ることのないように気をつけよう。神がそれらのものとあなたとの間におられることを確信しよう。あたかも、晴天であろうと嵐であろうと、船が旅人と大海原の間にあるように。

その日のための着替えをするとき、神があなたに衣服を与えてくださることを思い起こそう。「キリストの柔和さと優しさ」、「救いの衣……正義の外套」、クリスチャンの徳の宝石とともに、「雪のように白い衣」を用意してくださっていることを。あなたを着飾らせる神のご性質の属性であり、恵みであることを心に留めよう。そして何よりも「光の武具を身に着けよう」。神は光であられることを思い起こしつつ。

あなたは、人となられた神である「キリストを着て」自分の部屋を出て、神の麗しいご性質をまとう者として、今日の戦いの闘技場へと降りていく。着替えをするあいだ、こうやって神に想いを集中することで、崇敬と感謝、とりなしの行為を己のたましいに準備させることができる。それは神の宮の薫り高い香のようにたちのぼって、神へと届くだろう。

F・B・マイアー
 

刑務所でよく読んだ浅田次郎著の「一路」の感想です。

 


失火により父が不慮の死を遂げたため、江戸から西美濃・田名部郡に帰参した小野寺一路。齢十九にして初めて訪れた故郷では、小野寺家代々の御役目・参勤道中御供頭を仰せつかる。失火は大罪にして、家督相続は仮の沙汰。


差配に不手際があれば、ただちに家名断絶と追い詰められる一路だったが、家伝の「行軍録」を唯一の頼りに、いざ江戸見参の道中へ!

無残にも焼け落ちた家の焼け跡から見つけたのは、いにしえの先祖が書いた書物であった。その一行目には「参勤交代のご行列は行軍である」と記されていた。これを見た一路は「古式」どおりの参勤交代を復活させようと心に決める。

 私たちキリスト者の人生も「行軍」ではないだろうか。艱難がある。迫害がある。敵が襲いかかることもある。しかし、たどり着いたところでは神様が出迎えてくださるのである。この「行軍録」にあたるものが私たちには与えられている。一路も「行軍録」の中に意味不明のものもあった。しかし、一路は忠実に従った。私たちも「聖書」に忠実に歩まなければならないと思う。

 

一所懸命なのである。
「いまは一生懸命に転じられてしまっているけど、本来の意味からして『一生』であるわけない。『一所』ですよ」
浅田次郎さんは、そう力説された。
「一所」とは自分の領分。その領分を、一人一人が力を尽くして耕す。そうした総合力が全体の力となる。このごろ忘れられつつあるが、それが日本人の美徳だったのではないか。
「耕す」のは農地ばかりではない。たとえば武士にとっては、家督をつつがなく継ぐこと、家を守ることが人生だった。
「一路」解説より
 

 

「一所懸命」な一路。ときには涙することもあった。許嫁である「薫」を送り届けた帰り道、前途を思い頭を垂れてしまう。後日、上役から「うつけ者」と。

「ならば、おぬしをうつけ者というたわけを教えて進ぜよう」
「承ります」
「他人の屋敷の前で長々と頭を垂れ、あまつさえ童のごとく泣き出す馬鹿があるか。家内にまで貰い泣きをされたのでは、亭主のわしが命を張らぬわけにはゆくまい。この、うつけ者めが」
一路は冴え返ったふるさとの空を見上げた。この国分様を晴れて岳父と呼べる日が、いつか来るのだろうか。
 

 

見ていてくださるお方がいるのです。主は私たちの涙ながらの心の内をちゃんと見ていてくださっています。そして主は、文字通り命を張って私たちをお救いくださいました。
 

「一路」はコメディータッチの作品ではありますが、心を打つ場面がちりばめられている作品です。

 

私は他に二つのブログを運営していますが、その一つのブログタイトルに「一路」という言葉を取り入れています。

 

 

目に見える喜びの度合いが低くなっている人、津波に飲まれた船のように破壊されてしまった人、ひどい痛みの中にいる人、貧しさの中にいる人、そのような人が、自分が信じている神に親しく語りかけることができるだろうか。そのうえ、

「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう」(ヨブ記13:15)

と言えるだろうか。

最悪の場合であっても、私たちキリスト者は、「勝ち組」と呼ばれる状態にいる人たちよりずっと幸いなのである。

信仰を持った者の貧しさは、信仰を持たぬ人が豊かなよりずっと幸いなのだ。

私たちキリスト者が病の中にいるのは、不義な人が健康であるよりよいのではないか。私たち信仰者が落胆しているのは、地上で最高の名誉を受けるよりもずっと幸いな状態なのだ。

罪の歓楽に耽るよりも、死の苦しみと同じほどの痛みに苦しむ方がはるかに勝とは考えられないか。

私たちは神の力をあまりに低く見積もっている。私たちは世の人から「まがいもの」と思われるものから、複利の利子が伴う豊かな世界を手に入れることができるのだ。

神の民は賛美をささげる。彼らは光の子であり、朝に楽しそうにさえずる鳥であり、陽の光の中で美しく咲く花のような者たちだ。

箴言に「知恵の道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」(箴言3:17)と言われている。

神の知恵に従うとき、私たちは決して終わることのない、完全に調和した、天へと導いてくれる音楽を聴いてる。

闇が闇の上に重なり、心が悩みに押し潰されるとき、その柔らかで妙なる音の調べが私たちと共にあるのだ。

私たちは悲しみの中にあっても、常に喜ぶことができる。私たちはずっと以前から、このことを知らされていたのではなかったのではないのか。

 

C・H・スポルジョン「いこいの水のほとりにて」より

 

 

月初めは仕事が忙しいです。