当たり前を疑うって大切なのかも… | 日々の出来事

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歯科矯正を始め、入院手術の生活を載せ、私よりあとに控えている人の役に立てたらと思い、始めました。
難聴の娘について思ったことも書いています。
最近は世の中の茶番劇に対して感じたことも書いています。




公立のろう学校の幼稚部ってどこでも多分やってるはずの絵日記。


親は宿題になって負担も多いと思います。

私の娘との会話でなかなか学校の出来事まで話すことは難しく、学校からの連絡や写真がないと会話できません。

家の出来事でも良いみたいだけど。

最近は概念が大切って聞いたから、一つの単語から連想されるものまで一緒に出来たら良いなと思うけど…

担任の先生の見ましたマークがはなまるだけで終わり、やり取りの内容まで書かれなくなってしまいました。

担任の先生から今日はどういうことをしたという連絡もない時が増え、絵日記がやれない日が増えてきました。


今のろう学校にはろう学校出身ママが数人いて、絵日記って本当に必要なのかって話してました。

もちろんろうママだと絵日記がなくてもろうの子どもとやり取りできるから必要ないのかもしれない。

けど、私たち聴の親とろうの子どもとの関係でも必要あるのか?と最近考えるようになってきました。

ことば絵じてんだって、スマホの写真見せらことだってできる。

絵日記は子どもとのやりとりを勉強にしてしまって、億劫なものになってしまってる気がする。

それより、楽しい子どもとのやりとりを目的に、手話ややり取りのヒントをもらった方が良い気がするんです。


ろうママが

なんでろうの子ども達は勉強の時間が必要なのか?その時間をもっと経験や体験、コミュニケーションの時間に充て、勉強は聴の子どもと同じように小学校入ってからで良いのではないか?

と言います。


でも先生方は、小学校に入ったらすぐ日本語で勉強が始まる。

日本語を理解しておかないと勉強が出来ないから今から勉強するんだ。

と主張します。


けどけど、インテするならわかるけど、ろう学校小学部が地域と同じ教科書を使って、同じやり方で同じペースで進めるってろうの子どもにとって意味があることなのか?と疑問です。

それはただの先生のエゴなんじゃないか?と思うんです。

もっとろうの子ども達に合ったペースで合ったやり方で、進めるべきじゃないのか?と思うんです。例え進み具合が地域より遅れたとしても一つ一つわかる事が大切だし、分からないまま地域のペースに合わせて進めると結局わからないまま終わってしまう可能性がある。それが1番怖いことですよね。理解してないとこは家で教えてくださいって先生はいうけど、1日の出来事の会話すらまだ出来てないのに、勉強を教えろなんてもっと無理。


まず聴の先生しかろう学校にいないのがまずいと思うんです。

私たち聴者は聴者の先生に聞くことしかできない。でもそれは聴者が想像で考えてアドバイスするだけ。ろう者は思考が違うからそのアドバイスの内容だと本当は分からないのに。

という事が多いと思う。

でも聴の先生は自信満々にアドバイスしてくるんですよね。

ほんと聞き流すに限ります。


概念も大事だけど、指文字が少しずつ出来るようになってきたから、読み書き日本語も少しずつどうやって教えようかと思い、テキストをかいました。


これ、ひらがなの形を覚えるところから入るからすごくいいですね。

ひらがなのシールを貼るところから。

今5歳で次は小学一年生になるけど、少しずつ楽しく積み上げて行きたいと思います。