今週の二択問題

1903年、ライト兄弟が人類初の動力による飛行に成功しました。この時飛行機に乗ったのは、兄のウィルバー、弟のオービルのどちらでしょう。

 

選択肢

・兄のウィルバー

・弟のオービル

 

正解…弟のオービル

 

解説

アメリカ合衆国出身のライト兄弟は、発明者かつ世界初の飛行機パイロットもしくは世界最先端のグライダーパイロットとしても知られている兄弟です。グスターヴ・ホワイトヘッドが1901年8月の初飛行が世界初ではないかという指摘はありますが、1903年に有人動力飛行に初成功したという意味では世界初になります。


父である牧師ミルトン・ライトの子として、6男1女の中の三男としてウィルバーが、四男としてオービルがそれぞれ誕生し、生涯ほぼデイトンで過ごしたと言われています。少年時代は凧揚げに夢中になっていたのですが、あまりの強風に紐が切れて凧が強風に乗って流される出来事がありました。この出来事で凧に人が乗るとどれだけ気持ちいいだろうと考えるキッカケが生まれました。

19世紀末の頃は陸で蒸気機関車や車が走り、海や川では蒸気船が航行し、そして最初の有人飛行をしたモンゴルフィエ兄弟に始まる熱気球から派生した飛行船がありましたが、「空気より重い飛行機」の動力飛行は発展途上の段階でした。手掛かりとしてジョージ・ケイリーのグライダーを基に、オットー・リリエンタールによって研究が進められていたのですが、確立に至らず暗中模索が続いていた時代でした。

そのリリエンタールが1896年の墜落事故死した後、少年時代の夢を叶えてかつ、リリエンタールの遺志を継ぐべく、飛行機完成へ向けての挑戦が始まりました。

 

1903年10月7日と12月8日の2度、兄弟に教えたサミュエル・ラングレー教授の飛行機エアロドロームは飛行テストを実施しました。

スミソニアン協会会長の地位にあり、アメリカ政府援助のもと主導した実験だったのですが、いずれも川へ墜落して失敗し、ラングレー晩節の評価を地に堕とすことになりました。これはまず無人動力飛行機で実験を行って、有人動力飛行機を次に飛行させるというものだったため、パイロットにとっては「ぶっつけ本番」そのものでした。

 

ただ操縦はオービルが上手かったそうで、グライダーを凧のように繋留索で空中に固定して、安全かつ安定に実験回数を増やすため、「安定した強風が吹いている場所」を気象台へ問い合わせたところ、故郷から遠く離れたキティホークを選択しました。(リリエンタールは風がどの方向から吹いてもいいように人工の丘を作った場所でもありますが、ここで墜落死しています)。
自転車店経営で、研究に必要な資金を自弁できた上に、自転車の技術を活用出来たのも大きかったのです。彼らの機体は機体の前方に水平安定板兼昇降舵があるなど安定性に問題がありましたが、安定性と操縦応答は両立しないため、操縦応答を最優先した飛行機こそ本物の飛行という信念がありました。そして兄弟は滑空飛行を繰り返し操縦に熟練していきます。

1903年12月17日にノースカロライナ州キティホーク近郊にあるキルデビルヒルズにて12馬力のエンジンを搭載したライトフライヤー号で有人動力飛行の実験をします。この時搭乗する順番を決めるべく、兄弟でコイントスして弟であるオービルが先に決まりました。飛行機の横にウィルバーが待機し、見事飛行に成功しました。

ただ光景を見ていた観客はたった5人だったそうです。


実権成功した兄弟ですが、その後はバッシングの嵐が待っていました。

何故かと言うと、いろんな大学教授や科学者が新聞等でライト兄弟の試みに、

「機械が飛ぶことは科学的にも不可能だからだ」

という旨の新聞記事やコメントを発表していたためで、世間ではこれを信じる人達が数多くいました。


ただ成功するにあたり、極めて高度な科学的視点から飛行のメカニズムを解明して、技術的工学的に着実な手法を取っていたことがポイントでした。

まず風洞実験によって得たデータを元に何機かのグライダー試作機を作成、堅実に飛行機の改良を行ったり、研究初期当時、飛行機開発の最先端を行っていたサミュエル・ラングレー教授から研究資料の提供を受けていたりしていたことも決め手になりました。
グライダーの回数もリリエンタールらに比較してもかなり多く、多くの実験データを収集するとともに飛行技術も勉強出来たのも大きかったようです。ますグライダーを基礎にまず操縦を研究して、自らそのパイロットになってから動力を追加する戦略をとっていたので、他者のプロジェクトは動力機体の製作しか眼中になかったのではないかと成功した後で述べてます。


こうして成功後は「空気よりも重い機械を用いた飛行の実用技術の開発者」と裁判所にも認められたライト兄弟ですが、飛行技術に関する特許取得は、飛行機が兵器として注目されていたこともって争いや妬みの対象にもなったのです。

特に敵意を向ける2人の人物がいて、有人動力飛行に失敗したラングレーの後を継いでスミソニアン協会会長の地位に就いたチャールズ・ウォルコットは民間人であるライト兄弟の偉業を決して認めず、スミソニアン博物館航空史に「ライトフライヤー号」を一切展示しなかったのです。

もう1人は飛行家のグレン・カーチスで航空会社を設立した人物ですが、ライト兄弟のパイオニアたる地位を否定すれば特許について有利な立場になれると考えて係争したことがあります。そこで反ライト兄弟派のウォルコットと手を結び、資金援助を得て1914年5月と6月にラングレーのエアロドローム再飛行実験を行ない成功しました。ただこれは35箇所もの改造が加えたため完全な別物になってました。実験結果を受けて、ウォルコットはスミソニアン協会年次報告に

「初めて飛べる飛行機を作ったのはラングレー」

というフェイク声明を発表、1903年当時の形状に戻したエアロドロームを人間を乗せて飛行可能な世界初の飛行機と表示してワシントン国立博物館に展示しました。

ライト兄弟側が抗議するも協会は完全無視、それどころか年次報告に執拗なまでに声明文を繰り返し掲載していました。

そのため一般にも世界初飛行に成功したのはラングレーだと思い込む者が増えていきました。

ただ冒頭の裁判所の判断もあってことごとく敗訴していたのも事実です。


そういった不毛な争いの最中に、飛行技術は急速に進歩していきます。ロール制御の手段としてのたわみ翼は補助翼というより完成度の高いものに進歩、1908年にはフランスのシャンパーニュで、世界最初の飛行大会が開催されました。この大会で、アンリ・ファルマンが飛行時間、ユベール・ラタムが高度、ルイ・ブレリオが速度の各部門の優勝者となりました(今日の飛行機の原型がこの時点で完成)。

ライト兄弟は優勝はおろか入賞さえ果たせない惨めな成績で終わり、グレン・カーチスもこの大会に出場、優勝こそ逃すも優秀な成績を収めました。この大会は、もはやライト兄弟が、凡百の飛行家のふたりでしか無い事を示す形になりました。
そんな中、失意と法廷闘争の疲労もあり、兄のウィルバーは1912年に腸チフスで死去し、兄の死から4年後、オービルは飛行機製造から身を引くことになりました。



しかしライト兄弟が世界最初の有人動力飛行を行ったことを高く評価する者も少なからずいました。日の目を見ることなくマサチューセッツ工科大学の倉庫に保管されていたライトフライヤー号に思わぬ申し出が届き、ロンドンの科学博物館が展示したいとオービルに希望を寄せてきました。熟考した結果、ロンドンからの申し入れを受諾し、1928年ライトフライヤー号はイギリスへ渡りました。
そしてイギリス旅行に来たアメリカ人からこんな指摘があり、

 

「何故ライトフライヤー号がこんな場にあるのか?」

 

と驚き、やがて世論となって、スミソニアン協会が無視するわけにもいかなくなってきた。ウォルコットの死後1928年に会長職を継いでいたチャールズ・アボットはオービルと面談し、ライトフライヤー号をアメリカ合衆国に戻すよう要請した。それに対するオービルの条件はたった一つ、

 

「前職のウォルコットが歪めた歴史を正しく修正する」

 

のみでした。
こうして1942年、スミソニアン協会は一転してライト兄弟の偉業を正式に発表し、1914年の実験を否定し最後の部分では兄弟に陳謝する形で完全に終わりました。

こうしてオービルはライトフライヤー号をアメリカへ戻すことに合意した。
第二次世界大戦などの混乱もあって、ライトフライヤー号がアメリカに戻ってワシントン国立博物館(国立航空宇宙博物館)に展示されたのは初飛行成功からちょうど45年経った1948年12月17日で、盛大な展示除幕式が行われました。

しかし弟のオービルは同年1月30日に76歳で心臓発作のためボストンで死去していたため、参加は叶いませんでした。

兄弟の死後、連邦航空局(FAA)が発行するパイロットのライセンスカードの裏面にはライト兄弟が肖像として描かれ、LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれたそうです。