東京の山手線一周の距離とフルマラソンの距離。長いのはどちらでしょう。 | KMプロデュースのブログ

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今週の二択問題

東京の山手線一周の距離とフルマラソンの距離。長いのはどちらでしょう。

 

・山手線一周

・フルマラソン


正解…フルマラソン

解説

まずは山手線について説明します。

 

山手線は駅ナンバリングで使われる路線記号が「JY」、東京の都心部で環状運転を行っていて、JR東日本が運営する鉄道路線です。多くの駅は都心から各方面へと伸びるJR東日本の在来線や新幹線、私鉄各社の放射路線および都心部を走る地下鉄各線に接続しています。

1周の長さは34.5 km、所要時間は一周およそ1時間、停車駅はJY01を東京駅を起点として以下の順に止まります。

  1. 東京駅
  2. 神田駅
  3. 秋葉原駅
  4. 御徒町駅
  5. 上野駅
  6. 鶯谷駅
  7. 日暮里駅
  8. 西日暮里駅
  9. 田端駅
  10. 駒込駅
  11. 巣鴨駅
  12. 大塚駅
  13. 池袋駅
  14. 目白駅
  15. 高田馬場駅
  16. 新大久保駅
  17. 新宿駅
  18. 代々木駅
  19. 原宿駅
  20. 渋谷駅
  21. 恵比寿駅
  22. 目黒駅
  23. 五反田駅
  24. 大崎駅
  25. 品川駅
  26. 高輪ゲートウェイ駅
  27. 田町駅
  28. 浜松町駅
  29. 新橋駅
  30. 有楽町駅

 

山手線の歴史は明治時代の文明開化期に、私鉄の日本鉄道が当時国内有数の貿易港であった横浜港と関東地方内陸部の各地(埼玉県、群馬県、栃木県)さらに東北地方や東海道本線、および北陸地方方面を結ぶ貨物線として、赤羽駅~品川駅を結ぶ品川線と呼ばれる鉄道路線が建設されたのが始まりでした。

当時は東京の人口密集地域であった下町を避けるべく、街外れだった山手に建設されました。

一方で同じ日本鉄道の路線である土浦線(1901年に海岸線に改称、現在の常磐線)と品川・横浜方面の連絡線の建設が計画され、土浦駅 - 南千住駅 - 田端駅間を結ぶ日本鉄道土浦線は1896年12月25日、日本鉄道第一区線上に田端駅を開業すると同時に開通、土浦、水戸方面と東京の北側を直結させました。この海岸線と山手線を結ぶ短絡線(山手線枝線、当初は豊島線と呼称)は1903年(明治36年)4月1日、日本鉄道品川線に池袋駅を開業したと同時に、田端駅と池袋駅間を結ぶ線路を開通させたことによって営業開始しました。

開業に先立つ1901年(明治34年)11月16日、日本鉄道は逓信大臣の認可のもと、定款の区線名称を変更し品川線と豊島線(当時未成線)を合わせて山手線の原型が完成、国有化されてからは太平洋戦争後の高度経済成長期に池袋駅~赤羽駅間を現行の赤羽線として分離することになりました。
開業当初は新橋駅 - 品川駅 - 渋谷駅 - 新宿駅 - 板橋駅 - 赤羽駅間を往復する列車が1日数往復のみ運行され、東京山手の人口増に伴って上野駅を起点として池袋駅、新宿駅、渋谷駅、品川駅、新橋駅を経て東京駅方面に至る環状運転が開始されました。

関東大震災後の1925年、上野駅 - 東京駅間の開通で現在の総延長34.5kmになったのです。

 

 

 

 

次にマラソンについて説明します。

これは陸上競技の長距離走のひとつで、順位や時間を競う種目になります。古代ギリシアの故事に由来して、第1回近代オリンピックの創設に伴って陸上の新種目とされたことから始まります。

 

この競技の名前の由来は紀元前450年9月12日、アテナイ(現在のアテネ)の名将ミルティアデスはマラトンに上陸したペルシャの大軍を奇策で撃退したというマラトンの戦いがありました。勝利というエウアンゲリオン(良い知らせ)をアテナイの元老に伝えるため、フィリッピデスという兵士が伝令に選ばれます。そしてフィリッピデスは、マラトンから約40km離れたアテナイまでを自力で駆け抜け、アテナイの郊外で「我勝てり」とギリシャ語で告げた後、力尽きて息を引き取ったと言われています。

 

※この伝承は若干異なる部分があり、ヘロドトスの『歴史』でフィリッピデスが走ったのは紀元前490年のペルシャとの戦いにおけるアテネからスパルタまでの約250kmであり、その目的は戦いの前にペルシャ軍を撃退するべく援軍を集めるためであり、マラトンの戦いで勝利を告げた使者の名は別人で、エウクレスもしくはテルシッポスだったのではないかと伝える史料があります。ただこの歴史に基づいたのが、この距離を走るウルトラマラソンの大会「スパルタスロン」になっています。
これらの故事を偲んだフランスの言語学者ミシェル・ブレアルの提案で、1896年にアテネで開かれた第1回オリンピックにマラトンからアテネ・パナシナイコ競技場までの競走が加えられました。これがマラソン競走の始まりです。この当時のマラソンの距離はおよそ40kmと定義していました。また、オリンピックでマラソン競技が実施された当初は距離が一定ではなく、同じコースを全選手が走ることが重要と考えられていました。

競技距離が統一されたのは第8回パリオリンピック以後で、第4回ロンドンオリンピック時の走行距離(市街地42 km+競技場の200 mトラック1周弱)をそのまま採用したものですが、当初、国王の住むウィンザー城からホワイトシティ・スタジアムの26マイル(41.843 km)で競うこととされていました。この際王妃のアレクサンドラが、「スタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前に」と注文したため、半端な数字の距離(385ヤード)だけ延長されたという説があります。

スタート地点の移動も観客が参加選手の走行を邪魔しないよう配慮した結果、追加された距離が700ヤードでした。これを総合すると現在の42.195 km(26マイル385ヤード)が出来上がったのです。

 

 

ですから、

 

山手線一周の距離34.5km<フルマラソンの距離42.195km

 

ということになります。