(2021年4月18日放送分)
 
問題1
1974年4月20日から6月10日まで東京国立博物館で、ある絵画が公開され話題となりました。ルーヴル美術館から貸し出された、レオナルド・ダ・ヴィンチのこの絵画の名前は何でしょう?
 
1…モナ・リザ
2…最後の晩餐
3…受胎告知
 
正解…1
 
解説
「世界でもっとも知られた、もっとも見られた、もっとも書かれた、もっとも歌われた、もっともパロディ作品が作られた美術作品」と言われている『モナ・リザ』は、イタリアの美術家であるレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたポプラ板に描いた油彩画で、女性の上半身のみが描かれています。制作されたのが1503~1506年頃で、もともとはフランス王フランソワ1世が購入した作品でした。
この作品の由来は16世紀のイタリア人芸術家である伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリの著書で、レオナルドが死去した31年後の1550年に出版された『画家・彫刻家・建築家列伝』にて、
「レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドから妻モナ・リザの肖像画制作の依頼を受けた」
という記述がありました。イタリア語の「ma donna」は「私の貴婦人」を意味していて、短縮形で「mona」と綴られます。ヴァザーリが著作で「mona」が伝統的な綴りとしていますが、現代イタリア語で「madonna」の短縮形が「monna」になっていました。したがって「モナ・リザ」を現代イタリア語で綴ると「Monna Lisa」になりますが、世界では一般的に「Mona Lisa」となっています。

『モナ・リザ』のモデルであるリザ・デル・ジョコンドはフィレンツェとトスカーナに起源を持つゲラルディーニ家の出身で、フィレンツェの裕福な絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚し5人の子宝に恵まれました。フランチェスコが『モナ・リザ』の制作をレオナルドに依頼したのはデル・ジョコンド一家の新居引越しと次男アドレアの出産祝いだったと考えられています。
 
1516年にレオナルドはフランス王フランソワ1世の招きに応じてフランスを訪れ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館に移り住み、『モナ・リザ』をフランスに持参して加筆し続けたそうですが、その3年後に死去したため、弟子のサライが相続しました。
その後フランソワ1世が『モナ・リザ』を4,000エキュで買い上げてルイ14世に寄贈されるまで、100年以上フォンテーヌブロー宮殿に所蔵されていました。
ルイ14世は『モナ・リザ』を自身が新たに王宮に定めたヴェルサイユ宮殿へと移し、フランス革命後はルーヴル美術館の所蔵となりました。その間、ナポレオン1世がフランス皇帝即位時はテュイルリー宮殿のナポレオン1世の寝室に飾られていたこともあり、1870年から1871年に起こった普仏戦争時にはルーヴル美術館からブレスト・アーセナルに移されていた時期がありました。
 
ルーヴル美術館に所蔵されていた1911年8月21日に盗難事件が発生します。
フランス人画家ルイ・ベローが『モナ・リザ』をスケッチするために、『モナ・リザ』が公開されているサロン・カレを訪れたのですが、『モナ・リザ』が展示されているはずの場所には額縁を固定する釘のみが残されたままになっていました。ベローは速やかに警備責任者に連絡したものの、警備責任者は『モナ・リザ』は宣伝に使用する写真撮影のために移動させられているだけと思い込んでました。結局美術館の担当者に再確認したところ、『モナ・リザ』に写真撮影の予定が入ってなかった事が分かり盗難が発覚、捜査協力のために一週間の閉館を余儀なくされたのです。真犯人が判明したのは盗難から2年後の事で、ルーヴル美術館元職員だったイタリア人で、イタリア愛国者のビンセンツォ・ペルージャでした。
犯行の手口は開館時間中に入館して、清掃用具入れの中に身を隠してました。閉館後に隠れ場所を出て『モナ・リザ』を外し、コートの下に隠して逃走していました。その動機ですが、「同じイタリア人であるレオナルドの作品はイタリアの美術館に収蔵されるべき」という考えを本人が持っていたからで、盗んで2年間もの間、自身のアパートに隠していたそうで、フィレンツェのウフィツィ美術館館長に『モナ・リザ』を高額で売却しようとした所を発見され逮捕されました。それからイタリアに持ち込まれていた『モナ・リザ』はそのままイタリア中で巡回展示された後にルーヴル美術館へ返却される運びになりました。真犯人だったペルージャはイタリアで裁判にかけられ、愛国者である事が考慮されて禁錮6か月を言い渡されたそうです。

第二次世界大戦時には戦禍を避けるためにアンボワーズ城、ロク・デュ修道院、シャンボール城を転々とし、モントーバンのアングル美術館に収められていた時期がありましたが、(現在は修復され、損壊事件防止のために防弾ガラスのケースへ収められる事になりました)。
1974年4月、『モナ・リザ』が東京国立博物館へ貸し出し展示されていた時に美術館の身体障害者への対応に憤った「足の不自由な女性」に赤色のスプレー塗料を吹き付けられたり、2009年8月2日にフランス市民権取得を拒否されて度を失ったロシア人女性がルーヴル美術館の土産物屋で購入した素焼きのコップを『モナ・リザ』へ投げつけた事件があったのですが、いずれも防弾ガラスに収められていたため無事でした。
 
制作されて500年以上経過していますが、1952年に開催された美術品に関する国際会議で「保存状態は極めて良好」とされています。これは過去に様々な修復が入っていることが一因に挙げられています。
 
1回目は18世紀半ばから19世紀初頭にかけて、ポプラ板の歪みの修復が行われています。どういう事かというと、支持体となっているポプラ板は湿度の影響により歪みや反りが生じます。これによって画面上部にひびが入って、女性像の髪の部分にまでひび割れが及んだ事がありました。そこで歪みを矯正すべく、2点のクルミ材製の固定具が作品の背面に挿し込まれたそうです。ポプラ板の厚みのおよそ3分の1の深さまで固定具を挿し込むという高度な技術が必要でしたが、この修復が成功してひびの状態が安定しました。
2回目は1809年の事で、16世紀の終わりまでには画肌保護のために表面に塗布されていたワニスが劣化して画面全体が黒ずんで見えていました。このとき修復作業にあたったのは、ナポレオン美術館と改名されていた美術館の絵画修復責任者であるジャン=マリー・フストゥルの指揮で、画肌最上部のワニス層を蒸留アルコールにて洗浄除去し、その後ワニスの塗りなおしと加筆をして画面全体に往時の明るさを取り戻したそうです。
3回目は1888年から1905年のどこかで上部の固定具が脱落した事があり、第二次世界大戦中に不適切な保存下に置かれていたために生じた歪みへの対応と、レオナルド生誕500年記念展覧会に出品される準備として、それ以上ポプラ板が歪まないように圧力をかけるために、ブナ材の横木がついた弾力性のあるオークの額縁に収められました。​​​
4回目は1906年の事で、ルーヴル美術館の修復担当者であったウジェーヌ・ドゥニザールが、ポプラ板のひび割れによって荒れた画肌部分に水彩顔料で修復加筆を行っています。また、古い額縁では隠れていた画面端部分のワニスの修復も合わせて行っています。盗難に遭ってルーヴル美術館に戻された1913年にも特殊な溶剤を使用しない洗浄作業を執り行い、顔料が欠落していた箇所に対して水彩顔料によるわずかな加筆で修復作業を終えています。
5回目は1933年で、マダム・ド・ジロンドが初期の修復者たちが細部にわたるまで「細心の注意を払って」修復作業にあたった跡があったと言われています。
6回目は1952年で、画面背景部分を覆っていたワニス層の表面を滑らかにする修復が行われました。
7回目は戦後の1956年に、観客から酸を浴びせられて画面下部に大きな損傷を受け、同年12月30日にボリビア人青年が石を投げつけて画面左下部の顔料が僅かですが剥落しました。この時ジャン=ガブリエル・グーリナが修復を担当し、損害を受けた『モナ・リザ』の左腕部分を水彩顔料で修復加筆しています。
8回目は1970年で、ブナ材の横木が虫による食害に遭っていた事が分かり、カエデ材へ交換されました。
9回目は2004~2005年です。支持体に使用されているポプラ板の反りが悩みになってましたが、保存委員会がカエデ材の横木からプラタナス材の横木へ交換し、さらに科学的な歪みの測定に基づいて金属製の横木を追加しました。

学術的な保全、記録、調査を受けた後の2005年4月6日に「国家の間」に展示場所が移されました。この展示室で、防弾ガラスのケース内部で厳格な制御がなされており、湿度50±10%、温度18~21℃に保たれていて、さらに湿度の変動を防ぐ目的でシリカゲルもケース内に入っていて、相対湿度55%を保ち続けています。収蔵するためのサル・デ・ゼタの改築でNTV日本テレビが資金を提供したそうで、当時会長だった氏家齊一郎はその功績でレジオンドヌール勲章を授与されたそうです。
そして現在に至るまで、毎年およそ600万人の観客がフランスの国有財産としての『モナ・リザ』を見るためにパリのルーヴル美術館を訪れています。
 
 
選択肢にあるものは全てレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画の名前ですが、最後の晩餐はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院に、受胎告知はウフィツィ美術館にそれぞれ所蔵されています。
 
 
 
 
 
問題2
俳人、正岡子規の「子規」はある鳥の別名です。オスの鳴き声が「テッペンカケタカ」などとも聞こえるこの鳥は何でしょう?
 
1…ウグイス
2…ホトトギス
3…ヒバリ
 
正解…2
 
解説
「テッペンカケタカ」の他に、「本尊掛けたか」や「特許許可局」といった鳴き声の聞きなしがあるホトトギス(杜鵑)はカッコウ目・カッコウ科に分類され、アフリカ東部やマダガスカル、インドから中国南部まで幅広く分布している鳥類の一種で、特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵する習性で知られています。全長は28cmほどでヒヨドリよりわずかに大きくてハトより小さく、頭部と背中は灰色、翼と尾羽は黒褐色、胸と腹は白色でカッコウやツツドリよりも細くて薄い黒の横しまが入っています。なお、目のまわりには黄色のアイリングがあるのも特徴です。

ホトトギスの異称は様々ありますが、「杜宇」「蜀魂」「不如帰」と書く場合があります。これらは中国の故事や伝説に基づいていて、長江流域に三国志で有名な蜀という国がありました。そこに杜宇という男が現れて農耕を指導して古蜀を再興して帝王となり、「望帝」と呼ばれるようになりました。後に長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲って山中に隠棲します。望帝杜宇の死後、その霊魂はホトトギスに化身して農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるべく、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言われています。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤くなっているのはそのためだとも言われるようになったそうです。
 
それ以外にも時鳥、田鵑などといった漢字表記や異名が多いですが、子規という異名があります。これは正岡子規が1895年(明治28年)4月に近衛師団つきの従軍記者として遼東半島へ渡ったものの、予定から大幅に遅れ、5月に帰国の途につく羽目になりました。この時船中で喀血して重篤に陥ってしまい神戸病院に入院、吐血したこともあって当時「不治の病と言われた」結核と思っていたため死期を悟りました。そこで「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせてホトトギスにちなむ句を一晩で数十も作ったといわれています。そして、ホトトギスの漢字表記のひとつの「子規」を自分の俳号としたのもこういう理由からです。
 
 
ウグイス(鶯)の異称は春鳥(ハルドリ)、春告鳥(ハルツゲドリ)、花見鳥(ハナミドリ)、歌詠鳥(ウタヨミドリ)、経読鳥(キョウヨミドリ)、匂鳥(ニオイドリ)、人来鳥(ヒトクドリ)、百千鳥(モモチドリ)、黄鳥(コウチョウ)、金衣公子(キンイコウシ)、報春鳥(ホウシュンドリ)、黄粉鳥(キナコドリ)、禁鳥(トドメドリ)、初音(ハツネ)、などがあります。
ヒバリ(雲雀)の異称は告天子(こうてんし) 、叫天子(きょうてんし)、天雀(てんじゃく)、姫雛鳥(ひめひなどり)、噪天(そうてん)、日晴鳥(ひばり)などがあります。
 
 
 
 
 
問題3
ブラジル、ベネズエラ、スリナムなどの国にまたがる高地で、世界最大級の落差を誇る滝「エンジェルフォール」があることで知られるのは何高地でしょう?
 
1…カラコルム
2…ウラル
3…ギアナ
 
正解…3
 
解説
ブラジル・ベネズエラ・スリナム以外にコロンビア・ガイアナ・フランス領ギアナの6か国と地域にまたがっていて、ギアナ楯状地とも呼ばれているギアナ高地は、南アメリカ大陸の北部にあるオリノコ川・アマゾン川・およびアマゾン川の支流の1つであるネグロ川に囲まれた地域に存在する高地で、中心はベネズエラのカナイマ国立公園になります。面積約30000㎢あり、日本でいう中国地方とほぼ同じ大きさです(31,921.87㎢)。オリノコ川とエセキボ川に囲まれた地域に点在し、ほぼ垂直に切り立ったテーブルマウンテンが100を超えるほど点在していますが、標高の高いものはエセキボ川の西側に多くあり、ネブリナ(3014m)、ロライマ山(2810m)などがあります。なお、東側のテーブルマウンテンは比較的小規模で標高は1000m以下のものが大多数です。
テーブルマウンテンの1つであるアウヤンテプイには、世界最大の落差を持つ瀑布であるエンジェルフォールがあります。行政上はベネズエラのボリバル州グランサバナのカナイマ国立公園内に所在していて、世界最大の落差979mをもつ滝になりますが、この滝の最大の特徴は落差が非常に大きい影響で落下する水が滝下部に達するより前に分散して空気と絡み合い、滝下部が暴風雨のようになるために滝壺が存在しない事でも知られています。なお、最初に発見されたのは1910年にベネズエラ人探検家であるエルネスト・サンチェス・ラ・クルスだったと言われています。
 
世界的に知られるようになったのは1937年の事で、金鉱山を探すために飛行機を飛ばし、たまたまこの滝を発見したミズーリ州スプリングフィールド出身のアメリカ人探検飛行家ジェームズ・クロフォード・エンジェル・マーシャル(以下ジミー・エンジェル)の紹介でした。ジミー・エンジェルとその妻、2人の地質学者4人一行は、興味本位でアウヤンテプイの頂上台地へ着陸するも滑走路がなかったため再離陸できなくなりました。そのため一行は飛行機を置き去りにして、11日間かけて徒歩で下りる羽目になったそうです。結局無事に下りる事に成功した一行でしたが、1956年にジミー・エンジェルは飛行機事故による怪我がもとで57歳で死去しました。なお、死後から4年後の1960年にジミー・エンジェルの遺志により息子の手で遺灰をエンジェルフォールズの上空から撒かれたそうです。
ちなみに置き去りにされた飛行機は着陸から43年の時を経て1970年にベネズエラ軍の手によって回収され、修理された後に2012年現在、シウダー・ボリーバルの空港の前に設置・公開されています。よって名前の由来は実際はアメリカ人探検飛行家であるジミー・エンジェルが発見した事にちなんでいて、「エンジェル氏の滝」と言う意味であって、「天使の滝」という意味ではありません。
ここへのアクセスはカナイマからボートツアーが出ていて、遊覧飛行のついた2泊3日のツアーが一般的ですが、カナイマ自体が陸の孤島であるために1日1台航空機のみで行く事が出来ます。
 
ギアナ高地付近は鉄鉱石や希少金属類など豊富な地下資源の存在が確認されていますが、ロライマ山やエンジェルフォールを含むカナイマ国立公園(自然遺産に登録済)は観光客の増加に伴って排泄物による汚染や今までギアナ高地になかった種が持ち込まれるなして環境破壊が進んでいる現状があるようです。
 
 
カラコルムはインド北部・カシミール北部のパミール高原からチベット西部に連なる新期褶曲山脈です。
ウラル山脈はロシアを南北に縦断する山脈で、ユーラシア大陸をヨーロッパとアジアに分ける境界線の北側を形成しています。