芥川賞決まりましたね。とはいえ、候補作ぜんぶ読んでないので何も言えないのですが。年末年始に貸出期間が延びたので、海外文学などを借りまくって文芸誌に手をつけていませんでした。(しかも、未だ読み終えてないものも多々あり……

 

候補作は読んでいませんが(加えて、何も言えないとは言いましたが)、なんとなく宇佐見さんが獲りそうな予感はしていました。「かか」で賞を獲らなかった(三島賞は受賞しました)のが不思議なくらいの才能ですものね。ある方の「推し、燃ゆ」の要約と感想を読むと、「推しアイドルもの」というよりも、「生きづらさ」がメインに描かれているとのこと。確かに「かか」での母娘間の葛藤からアイドルものへの移行は、あまり想像できなかったのですがそういうテーマだとしたら納得。同時に候補作として挙がっていた「コンジュジ」(木崎みつ子)も、「生きづらさ」を描いているらしく、それもネット界隈では評価がわりといい。わたしは、この二作(「推し、燃ゆ」「コンジュジ」)に興味が向いているところです。

 

ところで話は変わりますが、「読む」って難しくありませんか?

 

各々が持つ価値観やバイアスなどをいったん横に置き、冷静な目で作品を見つめるということ。自分の作品に対してももちろんそうですが……、ほかの小説に対しても、そういう眼差しでちゃんと読めているのか? と問われれば、わたしは自信がないです。わたしはよく、Twitterやブログ、読書メーターから感想を拾い読みして、自分の感じ方と合っているか(ざっくりと)確認したりします。(ひどいときはそれもせず、読み終えて返却OR本棚へ)

ずいぶん前に、カフェで本を読んでいるとき、ある小説の主人公を「あれってサイコパスだよね!」と傍らにいる女性たちが言っているのを聞きました。わたしは、サイコパスとは思わず読んでいたので、「見方を変えればサイコパスなんだ……」と思ったのですが、同時になぜかショックでもありました。というのは一例ですが、そのように人それぞれ、読むときの観点が違うわけなんですよね。

 

そう考えてみると、ちゃんと「読む」人(≒選考委員?)ってすごい。でもそれってめちゃくちゃ難しいしなあムムム、と感じてしまうのです。

 

でも、そのように「冷静にちゃんと読む」ことができれば、きっと自分の作品にも反映すると思うのです。バイアスぜんぶとっぱらう、という極端な話ではなく(そもそもそれがあって作品の味がでる場合もあるのだし)、いったん自分の中の余計なものを脇に置き、冷静に作品を精査する。

 

また話が少し飛ぶと、作家の江國香織さんは、「物語の世界の隅っこ」にいる感じで書いているといつだったかインタビューで言っていました(うろ覚えですみません)。これは、書くときも第三者的に物語を見ている、ということなのかなとわたしは思います。第三者と言っても、神の視点、という高みから見下ろすのではなく、登場人物たちと同じくらいの視点に立てる第三者。

 

ちなみに余談ですがわたしの場合、第三者目線で書けるときもあれば、主人公の感情を自分の身体が受ける(憑依する)体験をするときもあります。どちらにせよ、書き終えたあと、その小説を正しく読めるか否か、が重要なのかなと。

 

今、書いている作品は、どちらかというと(憑依)に近いかなあ。

憑依型の小説は脱稿したあと、解放感を味わうのですよね。

 

執筆の休みに、長々と書きました。まだ「読む」ことについて、考えようと思います。