碑文谷踏切責任地蔵について
抜粋
地域の昔話 26
悲話(2007年9月5日)
ゼームス坂を下って突き当たった東西の道は、品川宿から碑文谷仁王尊(碑文谷法華寺、現在の円融寺)へ向かう碑文谷仁王道といわれていた。そこにある天龍寺の本堂の左側、墓地への入口の脇に、大きな耳に手をかざし何か物音を聴いているような姿の小さな3体の地蔵がある。「碑文谷踏切責任地蔵尊」といわれている。
大正七年(一九一八年)五月一八日深夜、M銀行の行員が大崎の自宅に帰るため品川駅から人力車に乗り碑文谷仁王道に入った。東海道線までの急勾配の上り坂を登り、現在は隧道になっている碑文谷踏切にさしかかった時遮断棹は上がっていた。渡り始めた時右から下関行きの貨物列車が迫ってきた。人力車の車夫は慌てて逃げたが、客の行員は逃げ遅れ跳ね飛ばされ即死した
しかし、二人は事故の責任を痛感し、事故の直後大井町駅寄りの線路上に身を伏せて命を絶った。当時の都新聞(東京新聞の前身)にも「会葬者皆泣く葬儀」と二人の踏切番の死を悼む記事が掲載され、多くの人の同情を誘った。
天龍寺の「碑文谷踏切責任地蔵尊」は、この事故で亡くなった行員と踏切番の供養のために造立されたものである。
ああ踏切番という歌はこの悲話から生まれたのでしょうか?
踏切番の人は自分の責任を感じて
自殺した。