「こんな場所だったら、さすがに今年はなにも起こらないだろう」

「そうかしら?」

 敏夫の言葉に、異論を唱えたのはターニャだ。

 カレンもなにかを感じ取っているようだ。

 カレンだけではなく、桜井、安藤、古川、木島。健一の表情が険しくなっている。

 桜井と安藤は職業柄として、木島は元武闘派のヤクザとして、健一は持って生まれ た野生の勘が働き、ターニャとカレン同様異様な気配を感じていた。

 その時、どこからか黒猫が入ってきた。

 その黒猫は、とても愛らしい顔をしている。

「あら、可愛い」

 実桜が近寄ろうとしたとき、「近寄らないで」とカレンの鋭い声が飛んだ。

 実桜が足を止めた瞬間、黒猫は凶暴な顔付きになり実桜に飛び掛かった。

 実桜に噛みつこうとした黒猫の喉元を、カレンが掴んで止めた。

「どこから?」

 安藤が周囲を見回す。

 どこにも、猫が入ってくるような隙間はない。

「あそこだ」

 いつどこで開けられたのか、桜井が指さした壁の隅に小さな穴が開いていた。

 しかし、カレンとターニャはそれを察知していた。

 二人が黙っていたのは、直ぐに危険はないと感じ取っていたのと、これから起こることに期待していたからだ。

 どれだけここに集う連中が大切だとしても、カレンとターニャに流れる闘争本能の血は濃い。

「狂犬病は知ってるが、狂猫病ってのは聞いたことがねえな」

 カレンが掴んでいる猫は、歯を剥き出して低い唸り声を立てている。

 その瞬間、カレンは反対の手で首筋を掴み直した。

 猫は唸りながら、四肢を振り回し始めた。

 まさに木島が言ったように、狂犬病のような態度だ。

「これは、病気ではないな」

 善次郎が、壁に開けられた穴を凝視しながら言う。

「そうやな、また今年もか」

 健一がうんざりした顔をした。

「今度は、どんな理由かな?」

 敏夫の言葉に、「復讐じゃありませんか」と洋二が答える。

「まあ、そんなとこやろな」

 健一は、うんざりした顔を崩さない。

「まったく、懲りへん連中やな」

 苦笑交じりに言ったものの、悟はどこか嬉しそうだ。

 これでカレンの鬱憤が少しでも晴れてくれればいいと思っている。

 近頃はカレンを恐れて、大阪のミナミやキタ、それに神戸の深夜の繁華街はひっそりとしている。

 カレンが半グレや不良外国人を片っ端から徹底的に痛めつけたので、みんなカレンを恐れて大人しくなった。

 だから、どれだけこれまで深夜は危険地帯と言われた場所に出かけて行っても、カレンが鬱憤晴らしをする相手がいない。

 まあ、そんな連中を相手にしたって物足らないのだが、カレンにとってはしないよりは少しはストレスが軽減されていた。

 そんなわけで、近頃のカレンは鬱憤が溜まっている。

「カレン、よかったな」

 さすがみんなの前では悟はそんなことを言えないが、代わりに健一が言った。

 カレンと気が合う健一には、今のカレンの気持ちが手に取るようにわかっている。

「薬でも打たれたのかな」

 善次郎は心配そうに、カレンが掴んでいる猫を見ている。

 猫は、カレンの手から脱出しようとして暴れている。

「もし、薬だとしたら、この猫に噛まれた者は死んでしまうのかしら」

 心配そうに猫を見ながら、美千代が言う。

「俺たちが猫を殺せないのを知っていて、なんて卑怯な奴らだ」

 木島が吼える。

「それが、奴らのやり口よ」

 カレンほど、赤い金貨のことを知っている者はいいない。

 カレンと赤い金貨の因縁は深い。

 悟が撃たれた復讐もあって、カレンは幾度となく赤い金貨の野望を挫いてきた。

 カレンとターニャに並び称されていた、世界の三凶の一人、赤い金貨の守り神だった劉も、カレンによって倒された。

 赤い金貨も、幾度となくカレンには煮え湯を飲まされているので、次々に刺客を放っているが、ことごとく返り討ちにされている。

「赤い金貨に、そんな薬が作れるかしら」

 疑問を呈したのはターニャだ。

 赤い金貨は、武器や爆弾には精通しているが、細菌兵器や薬物の開発は行っていないはずだ。

 カレンほどではないが、ターニャも幾度となく赤い金貨と戦っており、よく知っている。

「そうね」

 そこは、カレンも疑問に思っていたことだ。

 古巣のCIAも、ターニャが属する組織も、赤い金貨が細菌兵器や薬物を作っているとの情報は得ていない。

「どうするよ」

 元武闘派のヤクザとは思えぬほど、木島は狼狽えている。

「この猫が、どんなことをされていても、猫には罪はねえ。殺すわけにはいかねえよ」

「まったくだ」

 木島の言葉に善次郎が応えると、みんながうんうんとうなづく。

「あれ?」

 突然、新八が大きな声を上げた。

「どうしたんや?」

 こんな時に声を上げるのは珍しいと思って、健一が訊いた。

「カレンさんが掴んでいる猫を、よく見てください。牙と爪がなんか変じゃないですか」

「なるほど」

 ターニャが気付いた。

「あんた、やるわね」

 カレンも気付いた。

「酷えことしやがる」

「まったくだ」

 桜井と安藤も気付いたようだ。

「新八、おまえ、やるやんけ」

 健一も気付いた。

「どういうことでえ」

 しっと猫を見ているが、木島を始め他の面々には事態が呑み込めない。

「この猫の牙と爪は、鋼鉄製に変えられている」

 ターニャが怒りを押し殺した声で答えた。

 よく見ると、猫の牙と爪は銀色に光っている。

 そして。どちらも鋭利な刃物のように尖っている。

「どうやら、牙と爪に毒を仕込んでいるようね」

 ターニャの言葉は正しい。

 ここにいる面々は猫を殺せないことを知っていて、赤い金貨は猫の牙と爪を改造し、そこに毒を仕込み、みんなを襲わせて殺そうと目論んでいたのだ。

 カレンとターニャと桜井ははまだしも、マル暴である安藤を含め、他の連中はただの民間人だ。

 ここ数年、たまたま正月のパーティで猫を巡って赤い金貨と争ってきただけだ。

 それも大半は、カレンとターニャが倒している。

 しかし、赤い金貨にとっては、ここに集う連中みんなが許しがたかったようだ。

 まあ、ろくな戦闘訓練も積んでいない連中に何人も倒されたのだから無理もない。

「サイボーグ?」

「喉を掴んでいる感触では、そうではなさそうよ」

 ひとみの疑問に、カレンが答える。

「なんだか、映画みたいになってきやがったな」

 桜井が顔をしかめる。

「ちょっとええか」

 健一がスマホを取り出して、一歩カレンに近づいた。

「暴れんよう、よう押さえとってな」

 言いながら、猫の周りにスマホを走らせた。

 健一がなにをしているのかわからないが、みんなは固唾を飲んで健一を見守っている。

 ただ、健一と一緒に働く涼子と良恵と新八にはわかったようだ。

「これか」

 健一がスマホの画面を見ながら呟く。

「チップを見つけた?」

 カレンには、この猫が遠隔操作で操られているのがわかっていたらしい。

「そんな機能があるの?」

 ターニャも遠隔で操られているのはわかっていたが、健一の持つスマホの機能に驚いている。

「こんなこともあろうかと思ってな、俺らで開発したんや」

 健一がドヤ顔をしてみせた。

「いったい、あなた達は何者なの?」

 つい先だって、赤い金貨が東京に爆弾テロ仕掛け、東京都民の命を盾にして莫大な身代金を奪おうとしたことがあった。

 その企みはカレンとターニャに潰されたが、東京駅に幾つもの爆弾を仕掛けていた。

 それをことごとく見つけたのは、健一達が開発したソフトで、最後の大きな時限爆弾を止めたのも、そのソフトだ。

 そのソフトを組み込んだ装置は、健一のみならず、涼子と良恵と新八も持っていた。

 それぞれの装置を二台ずつ、四人はカレンとターニャに差し出した。

 そんなものを開発するだけでも凄いのに、今度はこんなソフトを作っている。

 ターニャが驚くのも無理はない。

「普通の、システム開発をしてる民間人や」

 健一がしれっと答える。

「普通の民間人が、こんなものを開発出来るわけないでしょう。そんなこと、思い付きもしないわよ」

「カレンと付き合うとるからな」

 この健一の言葉は、ターニャを黙らせるには十分だった。

 確かに、ただの民間人であれば、カレンが仲良くするはずはない。

 普通ではないから、気が合うのだ。

「まったく、この前のことといい、とんでもない物を作ってくれたわね」

 ターニャはため息をつくしかなかった。

 が、どこか嬉しそうだ。

 あれだけ嫌っていた日本人にこんな連中がいるとは。

 日本人どころか、ターニャがこれまで認めた人間は、たった三人しかいない。

 カレンと悟と桜井だ。

 今は、ここに集う連中全員をターニャは認めている。

 しかし、その中でも健一は別格だ。

 健一と一緒に爆弾発見機や今の装置を作りだした涼子や良恵や新八、この連中にも驚きを隠せない、

「この前って、例のあれか? それが、こいつらとどう関わってるんだ」

 公安としては畑違いなので直接関わってはいないが、赤い金貨の爆弾テロのことは桜井も知っている。

 悟が、みんなに事のあらましを説明した。

「私たちがニューヨークで公演している間に、そんなことがあったんだ。健ったら、そんなこと一言も話してくれないじゃない」

 麗が、健一の腕をつねる。

「イタっ! もう済んだことや、そんなこと話したって、しようがないやろ」

 つねられた腕をさすりながら、健一が答える。

「新さん、私にも話してくれなかったわね」

「い、いや、よけいな心配をかけたくなくて」

 千飛里に睨まれて、新八は怯えた声を出した。

「まったく、こいつは進歩しとるのか、しとらんのか」

 健一が、心の中でため息をつく。

 麗と千飛里は別にして、みんな口々に四人を称えた。

「こんなこともあろうかって、普通は思わへんやろ」

「ええやないか、男が細かいことを一々気にするんやない」

 悟の言葉に健一が反論すると、悟は黙って肩をすくめた。

「ここにいる連中は、みんなまともじゃねえな」

 桜井が呆れている。

「いいじゃないか、頼もしくて」

 安藤が、桜井に煙草を差し出す。

「違えねえ」

 差し出された煙草を一本抜き取り、口に咥えた。

 安藤も、口に咥える。

 桜井がライターで安藤の煙草に火と点けてやってから、自分の煙草にも火を点ける。

「こんな連中ばかりだったら、日本も安泰なんだがな」

 紫煙を吐き出しながら、桜井が言う。

「そうだな」

 安藤も紫煙を吐き出しながらうなづく。

「よっしゃ、自由にしたったで」

 なにやらスマホをいじっていた健一が、朗らかな声を出した。

 猫を操っていたチップを無効化したのだ。

 途端に、猫は暴れるのをやめて大人しくなった。

「よくもまあ、ここまでの物を作ったものね」

 さすがのカレンも呆れている。

「よくやった」

 木島が嬉しそうに健一の肩を抱いた。

「本当にありがとう」

 善次郎は、健一たち四人に向かって頭を下げた。

 その他の連中も、口々に四人を褒め称えた。

 みんなの賞賛が止んだとき、黒猫が一声「にゃあ」と鳴いた。

「どうやら、こいつは復讐したがってるようだぜ」

 木島が、猫の気持ちを代弁する。

 ここにいる連中は、みんな猫の気持ちがわかる。

 木島の言葉を疑う者は一人もいない。

「毎年毎年、猫を酷い目に遭わせるなんて許せません」

 声を荒げたのは新八だ。

「新さん、かっこいい~」

 千飛里が嬌声を上げる。

 本当にこいつは成長したな。

 健一は、新八の成長が嬉しくてたまらない。

 それは、涼子と良恵も同じだ。

「おまえの復讐を手伝うぜ」

 木島が、猫の頭を撫でる。

 ありがとうと言うように、再び黒猫が「にゃあ」と鳴いた。

「木島さん、よく言った」

 善次郎が木島の肩を強く叩いた。

「これがないと始まらないな」

 巌男が酒を呷りながら嬉しそうに言う。

「あなた、生きていてよかったわね」

 妻が、巌男に寄り添った。

「今年も、面白くなりそうですな」

 古川が、巌男のグラスを満たす。

「まあ、この人たちの活躍を見ていましょう」

 古川に満たされたグラスの酒を一気に飲み干して、巌男が嬉しそうに笑う。

「なあ、おまえ。おまえをこんな目に遭わせた奴らに一泡吹かせとうないか」

 健一が、大人しくなった猫を撫でながら囁くように言う。

「にゃ~」

 まるで健一の言葉を肯定するかのように、猫が鳴く。

「そうか、なら、一緒に戦おうやないか」

「にゃ~」

「おまえにチップを埋めた奴は、おまえの獲物や」

「にゃ~」 

 健一と猫の会話は、立派に成立している。

「そうと決まったら、みんな、準備はええな」

 健一がカレンから猫を受け取って、高々と猫を掲げた。

「オー!!」

 みんなが唱和する。

「まるで、お正月の風物詩ね」

「そうだな」

 美千代の言葉に、善次郎がうなづく。

 慣れというのは恐ろしい。

 いつ命を落としてもおかしくないというのに、毎年こういうことがあると、誰にも恐れという感情が湧いてこない。

 だからといって、これまで死なずに済んだからと高を括っているわけではない。

 もしかしたら、今日が命日になるかもしれない。

 誰しもが、そう思っている。

 ただ、死への恐怖が薄らいでいるだけだ。

 どれだけ訓練を積み重ねてもそんな境地にはなれないものだが、たった数度の実戦でこんな境地になれるのは、生い立ちや職業は違っても、みんなカレンやターニャとどこか共通項があるのだろう。

「年々、頼もしくなっているわね」

 この連中には、毎年ターニャは驚かせられる。

「キャットガーディアンズ」

 カレンが陽気に、右手を突き上げた。

「おうよ、猫のためだったた、命なんか惜しくはねえぜ」

 木島も右手を突き上げる。

「猫のためだったら、なんでもするさ」

 善次郎も、右手を突き上げる。

「洋平君と由香利は、ここに残っていなさい。二人には、これからの未来がある」

「大丈夫です、あれから更に鍛えてますから。それにこんなことをするような奴らは放っておけません」

 敏夫の労わりに感謝しながらも、洋平はきっぱりと答えた。

「そうよ、お父さん。ここで私たちだけの未来を考えるような人だったら、この結婚はなかったことにするわ」

 由香利の言葉が終わった直後、万雷の拍手が起きた。

「若いのに、立派なもんや」

 健一が涙ぐんでいる。

 漢気のある健一には、二人の気持ちにとても心が揺さぶられた。

 それは、みんなも同じで、カレンとターニャと桜井と安藤を除く連中は、みな涙ぐんでいる。

 その四人にしてお、心は揺さぶられている。

 ただ職業柄、涙を流すことがないだけだ。

 この二人だけは、絶対に死なせやしない。

 四人は、心の中で堅く誓った。

 四人だけではない、他の連中もそう思っている。

 特に、洋平の父親である善次郎と、由香利の父親である敏夫は、身を挺してでも二人を守ろうと思っている。

 二人の母親である美千代と里美もそうだ。

「凄い人たちね」

 キャバ嬢時代の客にこんな人間はいなかった実桜は、こんな連中と一緒にいれて、とても幸せな気持ちに包まれた、

 実桜の心を読み取ったかのように、「幸せだね」と言って、真が優しく必桜の肩を抱く。

「頑張ってね、健。洋平君を絶対に死なせちゃ駄目よ」

 麗が、健一に腕を絡ませる。

「まかせとき」

 麗に言われるまでもなく、健一もそのつもりだ。

「あなたも頑張ってね」

「ああ」

 ひとみの言葉に、洋二が短く答える。

「新さんはどうなってもいいから、あの二人を守ってね」

 千飛里が、意外なことを言う。

 それも、新八を信頼しているからこそ言える言葉だ。

「もちろんです」

 千飛里の言葉に、新八がきっぱりと答える。

 本当に頼もしくなったな。

 健一が、またもや涙ぐんだ・

「さあ、キャットガーディアンズ、出撃するわよ」

 ピクニックにでも行こうかというように、カレンが陽気な口調で右手を突き上げる。

「おう!!」

 みんなも、右手を突き上げる。

「よっしゃ、道案内は頼むで」

 健一が、猫を降ろした。

 黒猫が任せとけというように一声「にゃ~」と鳴くと、胸を張って歩き出した。