「そろそろ帰るか」

 日が暮れた頃、親父が立ち上がった。

「お父さんの入院は、一週間後よ」

 おふくろが、俺に耳打ちをする。

 本当は、家にも帰ってきた欲しかったんだろうが、二人共そのことは口にしなかった。

「わかった、明日から出社するよ」

 俺が立ち上がったとき、にゃん吉がごく自然な動作で、親父の足許にすりよった。

 親父のふくらはぎに、顔をこすり付ける。

 親父は一瞬ぴくりとしたが、直ぐにしゃがんで、にゃん吉の頭を撫でた。

 その手付きは、決して嫌がっている者の手付きではなかった。

 にゃん吉も、気持ち良さそうに目を閉じている。

「親父、黒猫は嫌いなんじゃ」

 まさか、親父がにゃん吉を撫でるなんて思ってなかった俺は、幻を見ているのではないかと思ったほど、目の前で起こっていることがにわかには信じられなかった。

「黒猫が縁起悪いなんて、人間が勝手に決めたことだろ」

 親父が、俺の顔を見てにやりとする。

「こうしていると、可愛いもんだな」

 猫って不思議だ。

 あれだけ黒猫を忌み嫌っていた親父の心を、あっさりと打ち負かしてしまった。

「わたしも撫でていいかしら」

 俺は黙ってうなづいた。

 おふくろは、親父以上に愛おしそうな手付きで、にゃん吉を撫でている。

 もしかして、おふくろは猫が好きなんじゃないだろうか。

 にゃん吉を撫でるおふくろを見て、俺はそう思った。

 だとすると、あのとき仔猫を拾った場所に返しに行ったのは、断腸の思いだったのかもしれない。

 機会があれば、今度聞いてみよう。

「いい仲間を持ったな」

 別れ際に親父が言った言葉を、俺は一生忘れないだろう。